帯びている。バルザックの小説において、読者はユーゴオの作品に対した場合のように、主要人物の動きにひきまわされるばかりではすまない。もう一つ、文章そのものに感情を刺戟されたり、思考を誘い出されて観察を目醒まされたり、と揉まれるのである。そして、我々は時に退屈したり、腹を立てて、バルザックを軽蔑したり、つまり自身の内から情感を生き生きと掻き立てられて、結局全篇を貫く熱気に支配されるのである。
 バルザックの文章の渾沌的情熱の模倣は不可能である。真似したとすれば、彼の文章の調子の最も消極的であるところだけが瑣末的な精密さや、議論癖、大袈裟な形容詞、独り合点などだけが、大きいボロのような重さで模倣者の文章にのしかかり、饐《す》えた悪臭を発するに過ぎないであろう。
 バルザックの文体を含味する余裕、その諸要素を理解し分析する力の積極性においては、同時代人の中でも、後に自然主義文学に基礎を与えたテエヌが流石《さすが》に立ちまさった見解を示している。サント・ブウヴは、バルザックが「従妹ベット」の中のパンセラスに関しての芸術論で「客間《サロン》で大成功をして、大勢の芸術愛好家に相談をされて、批評家になってしまった[#「批評家になってしまった」に傍点]。」云々ということを書いたのにひどく拘泥して、バルザックの死に際して書いた文章の中にわざわざ今日の我々から見ると意味ふかい数行を書き加え、バルザックは批評を無視したことを言っている。サント・ブウヴはその感情的基礎に我れ知らず作用されて、バルザックに対してはどちらかというと批評家としての自身の才能を活かしていない、言いかえれば出し惜しみをしているのであるが、バルザックの文体を「彼の文章の中には生き生きとはしているが、不十分で、勝手気儘で、しっかりと決っていない表現が沢山にある。それは、表現しようと企てて[#「企てて」に傍点]いるもので、何処まで行ってもそうである。彼の印刷屋はこのことをよく知っていた。」「彼にとっては鋳形そのものが常に煮えくり返っていたのであるから、金属の形の決りようがなかった。」と評しているのである。
 バルザックの文体の不確実であるという意見では、テエヌも決してサント・ブウヴと反対の側に立っていない。彼も、サント・ブウヴと同じようにフランス文学の古典の中に教養をうけて来た人にバルザックの作品を読ませたら、どんなに彼等は
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