バルザックは、クリスマス・カロールに向って鼻の頭に立て皺をよせるに止ったろう。バルザックの人物を典型的という名でよぶ習慣が、いつか文学の世界に入って来ているが、私たち人間そのものの動きに立って、バルザックの文学における虚構の真実をふわけするならば、彼の人物たちは、典型というよりも寧ろ原型にちかい。
 利慾、狡猾、打算、すべて「名誉のうらには金がある」という王政復古時代の現実をなまなましく反映したバルザックの人物たちは、その旺盛な爪牙をといでつかみかかる対象を常に必要としたし、その関係が、バルザック流の情熱で純粋を保つためには――純粋にぺてんにかけ、純粋にぺてんにかかるためには――この世の狡猾の英雄に対してこの世ならぬ無邪気な魂を必要とした。それゆえバルザックの浄らかさは誇張されざるを得なかった。リアリストとしてのバルザックの偉大さと、その偉大なリアリストが無自覚のうちにわが身を一つの檻にとじこめていた微妙なモメントは、この点から今日の読者にときあかされる。
 そして、我々は沁々と考える。時代というものは何と大したものであるか、と。巨大なバルザックの精神は、利害の出発点として金と権力と名誉としか見なくて(「幻滅」において、バルザックはセ・アルテの高邁さやそのグループの人々の団結を友情のまじりけなさとしてしか把握しなかった)、階級の歴史的な対立の中に高貴な精神もこの世に存在するということは知らなかった。しかし彼の百分の一の天賦しかない一個の青年も、今日の歴史の中に生きているという事実によって、例えばエールリッヒが、ジフテリア血清の最初の注射のために闘った対立に高貴なものを感じとり、自分のうちなるささやかな善意に鼓舞をうけとるのである。

        奇妙な別離

「魂と魂との結合が完きものであったときには、この美しい感情の極致を傷けるいかなるものも致命的なのだ。悪党どもなら匕首を振った後に仲直りするような場合にも、愛する者同志は、ただ一瞥一語のためにも仲をたがえ取り返すべからざるに至る。こうした心情生活が、殆ど完璧の域にあったことの記憶の中に説明のつきかねることの往々ある離別の秘密がひそんでいるのだ。」
「銭金のことは、どんなことでも円く行くもの、しかし感情は情容赦を知らないものである。」

 バルザックがこれを知っていたことは面白い。そして私たちを深く考えさせる。金銭の利害が人を支配するということをあれだけテーマとしている彼が。それだけに又「幻滅」ダヴィドとエーヴ、ポンスのような人物を描いたのだとも云える。そして決定的な一つのことを語っている。あらゆる大芸術家の重大な資質の一つは善良さと純潔な人間性であるということについて。
「二世紀(十五・六世紀、ルネッサンス)というものは権力に抗う人々が『自由意志』の怪しげな主義を築くために費された。更に二世紀(十七・八世紀)というものは、自由意志の第一段の必然帰結たる信仰の自由の発達を促すために費された。我々の世紀(十九世紀)はその第二段の必然帰結たる国民権《リベルテ・ポリチック》(普選)を築こうと試みているのである。」
「一八四〇年(ルイ・フィリップ)のフランスとは如何なる国であろうか。」
「われわれにとって国家なんていうものは――」

 すべてが完成されたと云われるこの時代に、すべての名誉も何も金! 金! 金! そこで極端な辛辣さが知性にびまんした。節操を失った。
 ジャン・ジャック・ルソーを嘲弄し、サン・シモンをせせら笑う。何ものも信じない。幻滅を通った七月革命後のフランスの堕落とバルザック。こういう彼が現代において「秩序ある社会を希望する人々」としてカトリーヌをあげている。
 そういう社会をのぞみ、信義をもち得る社会を求める心からバルザックは反対党――共和党に対して王党となったのか。
 ユーゴー(一八〇二―一八八五)は共和党であった。(一八四六年頃)そしてナポレオン三世の帝政布告に抗し二十年間亡命、一八七〇年普仏戦争による帝政崩壊後かえる。「レ・ミゼラブル」は亡命中。
 バルザックとユーゴーとの大きい差は、ユーゴーは二つの対立物から更に一つを生み出す能力をもっていたが(ゴーヴァン)、バルザックは、二者のうち、そのいずれかといつも対立においてものを見た。そのために彼はその洞察の強烈さにかかわらず、いつもリアクショナルな立場[#「立場」に傍点]にいることになっている。衷心の希望は人間的であるのにかかわらず。

        「現代史の裏面」

 ベルナール氏、ヴァンダ、オーギュスト。バルザックはここでディケンズの真似をしている。不器用にしている。
 ベルナール氏の娘への溺愛について、かくされた貧困について。

 当時のイギリス文学がバルザックに与えた影響。
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