ドン・バス炭坑区の「労働宮」
――ソヴェト同盟の労働者はどんな文化設備をもっているか――
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)四辺《あたり》
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(例)三四|哩《マイル》先の
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(例)[#地付き]〔一九三二年十一月〕
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世界の経済恐慌につれて、日本でも種々の生産(製糸、紡績、化学、運輸等)が低下し、それにつれて燃料原料となる石炭は二割七分の生産減を見た。北九州地方の炭坑労働者の生活などはこの頃以前にましてひどい有様になって来ている。(賃銀は一日平均十時間労働で一円五六十銭やっとだ。恐慌前から見ると二十銭以上引下げ)
これは北九州の或る坑山で実際にあった話であるが、或る坑山が所謂事業不振で閉鎖されることになった。会社の方では儲がうすくなったから、これ以上損をすまいと勝手に閉めるのだが、その日から女房子供を抱えて路頭に迷わなければならない数百人の労働者達は、黙ってそうですかと引込んではおれない。かたまって事務所へ押しかけ、閉めるのは勝手だが、俺たちの命がつなげる方法を講じろと迫った。会社ではあわてて、一策を案じ出した。それは、失業させられた労働者中の希望者は県当局がいくらかと会社がいくらかと旅費を補助して「満州国」へ移住させるというのだ。
会社の事務員は「満州国」へ行きさえすれば仕事は山ほどあり、物価はやすいし仕合わせずくめの話をする。ブル新聞では「新天地満州国」とか、日本の「大衆の幸福の鍵満州国」という風な太鼓をたたいているから、失業させられ、食う道を求めて焦っている労働者たちは到頭心を動かされた。僅かの旅費の補助を土台とし遠い満州国へ移住するのだからと家財道具をも売り払って、女房子供を引きつれ数百人が一団となって幸福を求め旅立って行った。
長春は新京と名を改め、今は「満州国」の首府である。着いて見て、北九州の労働者達は拳を握って口惜しがった。会社と県当局とに、一杯くわされたことがわかった。「満州国」の役人は職業の世話をしてくれないばかりか、テンから邪魔者扱いである。「こっちにはお前らよりもっとやすい賃銀で働く中国の労働者がいくらでもいるから用はない」そう云って放り出された、とり合ってくれぬ。
「満州国」がわれわれ大衆の暮しをよくする役に立つというようなブルジョア・地主政府の云い草は嘘である。中国を植民地として、中国の労働者を一層やすい賃銀で搾り、ブルジョア・地主が大衆を抑圧する力を強めようとしているばかりである。そういう事実が労働者たちに分った。人間なみの生活を求めて行った「満州国」でも労働者が得たものは「飢餓」と失業とである。
困り切った北九州の労働者の大部分は故郷へ又戻って来た。出立の時よりもっともっと無一文になり、殆ど乞食姿で戻った。「満州国」から帰る旅費はどこからも補助されなかったのである。
この話をきいた時、私の心にきつく浮んだ一つの活々した絵がある。それはソヴェト同盟の炭坑労働者の生活の有様である。
一九二八年の初秋(五ヵ年計画の始る前年であった)私はドン・バス炭坑区の中心ゴルロフカを見学した。五ヵ年計画によってウラル地方にも大きい炭坑区が出来たが、それまではドン・バス炭坑はソヴェト同盟最大の石炭宝庫であった。ソヴェト同盟では、諸君も知っているとおり、世界の労働者農民の見学団を心から歓迎している。石炭の町ゴルロフカにも、ドイツ、アメリカ、イギリスなどの工場や農村の職場大衆から選ばれて見学に来たもののために、また作家や技術家が見学や研究に来た時のために、特別な「訪問者の家」というのがある。
このゴルロフカ炭坑の革命までの主人はフランスのブルジョアであった。が、今はソヴェト同盟の革命的なプロレタリアが主人で、社会主義の社会を建設するために日夜努力をしている。炭坑事務所の壁には赤い布に「工業化! 電化! プロレタリアの勝利はこれだ!」と白字で書いたプラカートが貼られ、一週間ずつの採炭高と生産計画とを対照した興味ある統計図がかかげられている。経営主任の責任ある位置にいるひとはやっと三十そこそこで、その辺にいる誰彼と一向違わない鳶色のルバーシカを着、元気に仕事をやっている。鞄を小脇に抱えた連中が盛に出入りする、青い技師の制帽をかぶったのも来る。主任は日本の女がモスクワから遠い炭坑を見学に来たのを珍しがって忙しいにもかかわらず、
「あなたはどうしてドン・バスを見学する気になったんですか?」
と私に向って訊いた。私はありのまま答えた。
「私は石炭について専門的なことはちっとも知らないのです。けれども、私はソヴェト同盟へ来てからいろいろな工場を見学して、社会主義の国の工場とはどういうものか、そこで労働者はどんなに生活しているかということを見た。成程、人間は社会の仕組みによってはこうも暮せるのだということが分った。日本はブルジョア国だから工場もひどいが、炭坑は話のほかです。危険の中で獣のように搾られている。ソヴェト同盟の炭坑の労働者の生活はどんなか、それが見たかったのです」と云った。すると、
主任は、
「それは結構だ! すっかり見て下さい。ドミトロフ君、君このひとを案内してあげてくれ給え」
そう云ったが、急に私の方を振りかえり、
「ああ君、坑内へ入りますか?」
と云った。
「よかったら入れて下さい」
念のために断っておくがソヴェト同盟では、婦人の地下労働は一切禁じている。ドン・バスに何千と婦人労働者がいるがそれは選炭その他みんな地面の上での仕事をやっているのだ。
私は同志ドミトロフにつれられて、先ず大仕掛の動力室発電所へ入って行った。坑内の換気のため、エレベーターやトロを動すために、動力室では五人の熟練工が絶えず働いているが、感服したのはその安全装置である。唸って震えている、巨大なモーターの周囲は油さしやその他にごく必要な部分だけを露出して強い金網で覆ってある。調帯も、万一はずれた時下で働いている者に怪我させそうな場所は鉄板の覆いがかかっている。
更衣所で、男の着る作業服に着かえ、足先を麻の布でくるんで膝までの長靴をはいた。すっぽり作業帽をかぶって待っていると、自分も作業服にかえてドミトロフ君がやって来た。そして、
「ホホー」
と思わず笑い出した。私も笑った。というのは私は日本の女の中でも体が小さく丸く五尺に足りない。それがソヴェト同盟の大きい男の作業服を着たのだから、手先はだぶだぶだし、靴はぶかぶかだし、子供の化物のような恰好なのだ。
「工合がわるくないですか?」
ドミトロフ君は心配気だ。
「平気です。出かけましょうか」
「配燈室」へ入って行くと、丁度今交代で坑内へ下りようとする多勢の労働者が順々に安全燈をとりに来ている。我々一行もその列に並んで窓口から掛の婦人労働者に電気安全燈を貰った。
「配燈室」の入口の廊下から、みんなが列をつくっている場所の壁まで、うまく注意をひきつけるように傷害予防のポスターが貼りまわされている。
「注意! 注意! 命をすてるな」坑内へすてたタバコの吸殼からガス爆発をする絵が描いてある。
「注意! 同志たちよ、機械の力を理解して!」電気トロに油断すると、やっぱり命を失うぞ。不具になるぞと絵で示してある。安全燈をうけとる間に、毎日のことながら新しい注意をよび起すようにしてあるのだ。
「注意! アルコールはわれわれの敵だ!」酔って坑内へ下りようとし、エレベーターに挾まれて死ぬな。なかなか真に迫った絵が描かれている。
「注意! 骨を惜しむな!」小さい支柱の故障だと云って放って置くな。落盤はいつ起って君らを圧死さすかもしれぬ。
ソヴェト同盟の炭坑では労働者がどんなに作業の危険を防ごうと互に注意しあっているかがありありと感じられた。このポスターを見ただけでも、会社が搾るために労働者をシキに追い込む炭坑と、労働者が自分らのために働いている炭坑との根本的な相違が現れている。(こういうみなのためになるポスターなどはソヴェトのプロレタリア美術家同盟の画家たちが描いているのだ)
同じような注意は地下数百米の坑内にも及んでいる。見張所は応急救援所をかねている。
二時間ばかり泥水と炭塵にまびれて上って来ると、ドミトロフ君は私を風呂へ案内した。よそから来たものだけを入れる体裁の風呂ではない。みんな一日七時間――八時間の労働をすますと、風呂で体を洗って家へ帰るように設備が出来ているのだ。
「訪問者の家」はすっかり家族的なやりかたである。寝室が別なだけで食事でもお茶でも来合わせている者が食堂へ集って談笑しながら賑やかにたべる。夕飯のときは、ソヴェト同盟における炭坑の経済状態研究のためにレーニングラードから来ている学者が面白い話をして皆をよろこばせた。学者と云っても、書斎にだけこびりついて青ざめている学者ではない。彼は十月革命の当時、レーニングラードの鋳鉄工場にバリケードを築き銃を執ってプロレタリア解放のために闘い、後赤軍にいたことのある闘士である。
夕方七時頃、われわれは再び「訪問者の家」を出かけた。秋のことだから、四辺《あたり》はすっかり暗い。黄葉した樹の葉と枯れ始めた草の匂いがガス燈に照らされた道に漂っている道が原っぱのようなところにひらけた。先に立って歩いていたドミトロフ君が、
「鉄道線路があるから、つまずかないように!」と注意した。暫く行くと草に埋もれて、複線のレールが古びている。これは又何故か? 私は不思議に思った。すべてのものを役に立てるソヴェト同盟の労働者がどうしてレールを腐らしているのだろう?
ドミトロフ君のその時の答えは、今日も猶つよく私の心にのこっている。この二条のレールの走る地点こそ、ゴルロフカすべての労働者にとって忘られぬ記念の場所なのであった。一九一八年の国内戦のとき白軍が装甲列車をころがしてドン・バスを占領しようと攻撃して来た。ゴルロフカの革命的労働者は社会主義社会建設のためにこの豊富な炭坑区がどんなに大切な意味をもつものであるかということをはっきり知り命をもって守る決意をした。ここから三四|哩《マイル》先の地点にかけて最後の激戦が行われ、百七十余人の前衛労働者の血が流された。そして遂に白軍を炭坑区から追い払った勝利を記念するレールなのであった。
夜の原っぱを横切って、あっちからも、こっちからも三々五々男女の労働者がやって来る。彼方には夜目に白く堂々と巨大な丸天井をもった建物が浮び上っている。「労働宮」へ遊びや勉強にゆく労働者たちだ。
白い石の正面大階段を登ると、どっしりした鉄の扉の片翼が開いている。入ったところはやはり白い滑らかな石をしきつめた大広間だ。天井から新式な大電燈が煌々と輝いて、今あんな原っぱの夜道を通って来たということが信じられぬような印象を与える。小ざっぱりした平常着姿で本をもったりギターをもったりしている男女労働者に交って廊下へ出ると、つき当りは大舞台の入口だ。
「――今日は生憎何もやっていませんが……」ゴルロフカの労働者とその家族が無料で見物するために映画や芝居、音楽会、講演会などがこの大舞台で行われるのだ。薄暗い内部を見わしたところ、二階まで坐席があってなかなか大きい。モスクワに鉄道従業員組合クラブがあり、そこの舞台は数多いソヴェト同盟の労働者クラブの中でも立派なものとされているが、そこより多数入れそうだ。私はぐるりと見まわしながら、
「何人ぐらい入れるのでしょう」
ときいた。
「六百人はゆっくりです」
ドミトロフ君も満足そうに自分達労働者の力で建てた舞台を眺めていたが、やがてつけ加えて云った。
「この舞台は実に役に立ちますよ。われわれはここで映画や芝居を観てたのしむばかりではない。ソヴェト選挙もここでやるし、新経済年度の真面目な討論会も各坑の代表が集ってここでやる。楽しみの場所であり、真剣な仕事場でもある。――つまりわれわれの建設の両面がここにあるわけですね」
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