は、閃くようにオセロの憤りを思った。その思いは、何事もないとき、甘美に耳を傾けていた良人たるオセロの武勇のつよさを連想させ、そこに自分に向ってぬかれる剣を感じ、デスデモーナは、愛と恐怖に分別を失った。きょうのわたしたち女性はデスデモーナのその恐怖やかくしだてを、全くあわれな、おろかしいルネッサンス婦人の卑屈さとして感じる。オセロがどんなにおころうとも、デスデモーナはどうして二人にとって大切なハンカチーフがぬすまれたことを気づいたときすぐオセロに云わなかったろう。一緒にさがして下さい。と、その胸にすがって訴えなかったろう。デスデモーナにはまた別の恐怖があった。オセロが、却ってそれで妻の貞潔を疑いはしないだろうか、と――
舞台の上に見れば美しくあり悲劇でもあるこの女奴隷の恋めいたオセロへの畏怖から、イヤゴーの心理的トリックは着々と成功してゆく。そして遂に、かがやくばかりに美しかった白と黒との調和は、血潮のなかに壊滅させられる。
オセロの悲劇の頂点は、オセロの嫉妬だけにおかれていない。オセロの人間的尊厳を愚弄されたと思った憤りと絶望の深さにある。その角度からみれば、地球上に植民地というものが存在し、人種間の偏見が少しでものこされている限り、オセロの悲劇のファクターは、人間社会から消えていないということにもなる。
それにしてもデスデモーナは、愛のあかしとしておくられたハンカチーフは、つまるところ一枚のもの[#「もの」に傍点]であるハンカチーフにすぎないのだということを、どうして見ぬかなかっただろう。
シェクスピアの描いた女性のなかには、堂々たる婦人裁判官ポーシャばかりでなく、おそろしいマクベス夫人ばかりでなく、なかなかぬけめない、機略にとんだ女がいくたりもある。しかし、それは大体、おかみさん、または娘という環境で、デスデモーナのような貴族の姫ではないのが多い。「ロミオとジュリエット」で、ジュリエット姫は、どんなに哀憐にロミオ! ロミオ! とよび、夜の露台で有名な独白を月、星、夜鶯にかけて訴えたろう。しかし、ジュリエットが現実に出来たことは死ぬことしかなかった。デスデモーナが、まばゆいほど白くて美しい額の奥に、オセロを出しぬくだけの生一本な正直さもしんのつよい情熱ももたなかったお姫様気質を、シェクスピアは描き出そうとしたのだろうか。ハンカチーフは失われた。けれどもハン
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