り分けるから。
 絵画の問題も仲々むずかしい。日本画は、そのもっている制約から今日の人民の生活の複雑な感情をうつし出すに困難であるし、洋画は文学のように誰でも新聞小説を読むというふうな生活へのはいりこみ方をしていない。本場のフランスでさえ、セザンヌの住んでいた村でセザンヌは理解されていなかったし、ゴッホの忠実な弟がいなかったら、そして理解のある弟の妻がいなかったら、私たちはゴッホを紙屑籠の中へ失ったであろう。この間新聞である女流の日本画家と洋画の女流画家とが短い意見を発表しているのをみた。日本画の女流画家は、洋画一般が日本の生活とどんな必然性をもっているか、日本人であるということをどこまで分っているのだろうという疑問を出していた。これは面白い問題の提出であると思う。
 日本人であるということ、或はフランス美術をものにしているかいないかということ、それだけが問題ではないと思う。つまるところ私たちの生活の実感と今日洋画といわれている絵画の世界との間に、心からの必然がないことが問題だと思う。文学だとこんな小説がなんだろうと率直に疑問がいい表わせる。けれども画になると、例えば梅原龍三郎の画の世
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