るだけがその全部の理由であったのだろうか。
ここで、我々の前に、パリに住んでいる声楽家でありピアニストであり、作家ルイ・ヴィアルドオの妻であるヴィアルドオ夫人の存在が浮び上って来る。ツルゲーネフは彼より三つ年若いヴィアルドオ夫人が、ペテルブルグへ演奏旅行に来たとき知り合いとなった。このヴィアルドオ夫人こそ、「彼の半生以上をその傍に根つけにしてしまった」魅力の根源なのであった。既に一八四八年、三十歳のツルゲーネフは家庭の友としてヴィアルドオ夫妻とヨーロッパ旅行をやっている。その前年、ツルゲーネフに少年時代から沁々農奴生活の悲惨を感じさせた専横な女地主である母親が、外国で日を暮しているツルゲーネフに立腹して送金を拒絶した時、彼を助けて金を出してやったのは、ヴィアルドオ夫人である。
ヴィアルドオ夫人の美と才能とに対する傾倒、崇拝、女としての魅惑に対する愛着はもとよりのことであったろうが、ツルゲーネフはこの中流出身で芸術家としての処世上の苦労も知っているヴィアルドオ夫人なしでは全く何をどうすることも出来なかったらしい。ツルゲーネフは実際的などんなことでも夫人に相談し、その処置については云われるとおりにした。彼は、恐らく勝気で賢くあったであろう自分の美しい支配者に悉く満足し、ヴィアルドオ夫人の舵とりにまかせた安易な生活の幸福に浸った。友達が世渡りの辛苦を訴えると、真面目に答えた、「僕がしているとおりにしたまえ、私は支配せらるるままにしている」と。
これには流石《さすが》のブランデスも些か驚歎して、「純粋のスラヴ人で、感受性に鋭く、智的に多産でありながら、殆ど意志の力を欠いていた」ツルゲーネフであったから「彼は自分の生活に美しい支配者を得て幸であった」と云っている。
今日の目で見れば、ツルゲーネフの顕著な特徴となっている意志の力の欠乏を一口にスラヴ的と概括することは出来ないことである。同じスラヴ人の同時代人には二十年の流刑に堪えたチェルヌイシェフスキーをはじめ、七〇年代八〇年代以降今日に至るまでに、人類の中で最も堅忍と不撓不屈の意力によって歴史を押しすすめた更に多くの誇るべき大人物がスラヴ人の中から出ているのだから――。
ツルゲーネフは、このヴィアルドオ夫人にめぐり会うまでに、多くの女を知っていた。二十歳前後でベルリンにいた頃は、ある裁縫をする小娘といきさつがあって、一緒に住んでいたバクウニンを大分煙ったく思った経験があるらしい。
ヴィアルドオ夫人と知ってから後もロシアに住んでいた五〇年代の初め三年間ばかり、ツルゲーネフは非常な美人であるが、文盲な農奴の娘であるアブドーチャ・イワーノ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]と同棲していたことがある。アブドーチャはツルゲーネフの娘を生んだ。ツルゲーネフは結局この女を捨てた。後、娘が二十を越して或るフランス人と結婚するようになった時もツルゲーネフはその娘の母であるアブドーチャの行方は知らなかった。地主の旦那であるツルゲーネフにすてられてからその女は、どこかの目立たぬ役人の妻となって暮していたのである。この農奴の娘に対する無責任な交渉も、ツルゲーネフにとっては、のちのちまで心にかかるような深刻な問題として印象にのこる種類のものではなかったらしい。
こういうたちのツルゲーネフを器用なヴィアルドオ夫人が自身の芸術上の教養やパリの爛熟し、錯綜した社会の間で練られた世渡りの術やによって、こまごまと、嘘とまことを綯いまぜつつ賢く統帥して行ったであろう光景は、さながら一幅の絵となって髣髴と目に浮ぶようである。ヴィアルドオ夫人は「従妹ベット」がパンセラスの仕事を督励したとは別の方法で、言葉で、宝石の沢山はまった奇麗な白い手で、恐らくはツルゲーネフの芸術活動と、その成功を刺戟し、部分的には精神的共働者でもあったであろう。ぐうたらなツルゲーネフが「全生涯を通じて、少年時代の自由の信念を忠実に持し得たのは偏にヴィアルドオ夫人のおかげである」。
たださえ「力よりも寧ろ優美さにおいてまさる」文章をかくツルゲーネフが、上述のような生活環境にあって、作中に女の人物を書く場合特殊な情緒の集注をもって描いたのは自然なことである。
ヴィアルドオ夫人とのこの独特な結合は、ツルゲーネフを一種の恋愛偏重論者にしたかのように見える。彼は、男でも女でも、それぞれの人物が人間として最も光彩を放つのは、それぞれの人物が日夜たずさわっている仕事の裡においてではないと考えた。人はただ恋愛においてだけ個性の輝きを示し、独創性をも発揮し得るものである。ツルゲーネフはそう確信していたらしい。多分「ルージン」に対してであったと思う。同時代の批評家が、ルージンが既成の社会と闘争してゆく日常活動の様々の面が作品に扱われていないことについ
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