てそれを遺憾とし、批判した時もツルゲーネフは、自身の恋愛一義的態度を主張したのであった。
 ツルゲーネフのこの見解は、彼の死後十八年を経て、恐らく彼自身予想もしなかったであろう、一人の同感者を見出している。ロシアの歴史的なアナーキストであり、地質学者でもある公爵ピョートル・クロポトキンが一九〇一年に、ボストン市で「ロシア文学の理想と現実」という講演をやったことがあった。そのときクロポトキンは、ツルゲーネフの諸作品の重要なモティーヴが殆ど皆恋愛におかれていることに聴衆の注意をひき「ルージン」の扱い方では作者にすっかり同意を示した。クロポトキンは、語調に熱さえふくめてこう云った。「マッジニイとラサールは同じような仕事をした。しかし彼等はその恋愛において、如何に異っていたであろう! 諸君はラサールとハッツフェルド伯爵夫人との関係を知らずしてラサールを識ることは出来ぬ。」と――
 成程、われわれは、帝政時代のロシア貴族階級が生んだ国際的な作家の一人である伯爵イ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ン・ツルゲーネフの生涯を語るには、彼の娘を生んですてられた美しい、字の書けない農奴の娘アブドーチャの存在を知らなければならない。更に、彼の半生を支配してパリにしばりつけるほどの魅力の根源となった婦人、彼によって描かれるばかりでなく、彼をして書かしめる力となった活溌な、美貌の歌手ヴィアルドオ夫人との微妙な関係を知らねばならない。
 しかしながら、現実の生活において何が彼等を斯くもはなれ難く結びつけたかといえば、それはツルゲーネフやクロポトキンが文学的には書く価値のないものと考えた、日常の仕事を中心とする生活環境そのものではなかったろうか。
 ツルゲーネフが二十を越したばかりのロシアの富裕な貴公子で、天性優美と不決断とを持った西欧主義者として当時ペテルブルグの華やかな社交界に余暇の多い日々を送っていたればこそ、舞台以外のヴィアルドオ夫人と親しくする機会をもち、彼とは対蹠的であったらしい夫人の溌剌とした性格、処世術の魅力によって、生涯を支配されるに至ったのである。
 恋愛において個性が燃え立つのは、恋愛があらゆる場合、その個性の属する社会層の思想、習慣等の集約的表現だからである。様々の階級的感情、社会の一般的情勢に制約されつつ、或る者は恋愛をモメントとして自己の階級から脱離し、或る者は一層かたくそれと結合する。その相剋の間に、各々の個性が最も覆いもなく独特の調子、やりかたをもって発動し、それを大きく社会的に観れば自分の所属する階級の崩壊へ、或は前進への必然の道を遂行するのである。
 ツルゲーネフは、恋愛を制約する社会性というものの力を洞察し得なかった。当時のロシアの民衆の生活はゴーリキイの幼年時代によって明らかなように野蛮な暗い農奴制ののこりものである家長制に圧しつけられていた。農民、労働者の間に個性の自由や恋愛ののびのびした開花は無智と窮乏によって、貴族と小市民との間にあっては封建的なしきたりで、それが凍らされていた。
 個性の解放を欲求した面でツルゲーネフは全く生々しい若いロシアの要求を表現したのであるが、それを恋愛の行為にだけ納めて自分から納得したところに、彼の徒食階級の作家らしい非現実性が見られるのである。
 ツルゲーネフの見かたに従うと、或る一つの恋愛がこの社会にあって歴史の発展とどういう関係で結ばれているかということは、作品の主要な問題ではない。恋愛のいきさつ一般が人生の波瀾の中心事であると考えられている。従って、作者の腹に入って見ると、「その前夜」に描かれている恋愛の本質を「春の水」のマリヤの気まぐれな恋愛と比べて見た場合、どちらが社会的な価値において高いという、はっきりした選択と主張はされていない。
 あれを書き、これも書きという風にツルゲーネフは、自分の気分に応じてそれぞれ全く相反する「父と子」や「煙」を書いている。
 ロシアの急進的な若い男女は、階級と階級との益々明らかな対立、そこから生じる現実の烈しい鍛錬によって、「ルージン」の時代から「その前夜」「処女地」へと推移した。ツルゲーネフも、それにつれて外側から観察しそれぞれの時代の作品を書いて行ったが、パリにおける自身の生活の実践ではヴィアルドオ夫人に支配され、始めの時代の懶《ものう》い形態から本質的には何の飛躍もしないままに残ったのである。
 同じように婦人のために生涯多くの経験をもったバルザックの生きかたとツルゲーネフの生きかたとを思い合わせると、私は実に活々した興味と教訓とを覚える。
 ツルゲーネフより十九年上のバルザックは、ベルニー夫人やアブランテス公夫人との様々な交渉の間に、自分の経済的必要から、種々の或る場合は極めて筋のあやしい事業にまで手を出し遂に悲劇的な生涯を
前へ 次へ
全6ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング