ンチーノヴァ・ミチコヴァ」
 呼びあげながら、一わたり室内の群集をゆっくり端から端へと見渡した。信吉の一側前のベンチから、紺色の服を着た若い女がいそいで立って、壇の前へ出た。
 信吉は、顎をツン出して女裁判官の方を見ながら、今に自分の名が呼ばれるかと気を張った。ちがった。別の名だ。
「ワルワーラ・アンドリェヴナ・リャーシュコ」
 ――誰も出て来ない。
 女裁判官は、練れた声を少し高めてもう一遍呼んだ。
「いないんですか?」
 みんな、ザワめいた。赤い布で頭を包んだ女がベンチから立ち上りながら、
「さっき、ここにいたのに」
と、廊下の方へさがしに行った。
 すると、
「同志裁判官……」紺ルバーシカを着た猫背の薄禿げの男が前列のベンチから立ち上って、妙に押しつけがましい口調で女裁判官に云った。
「私は……ワルワーラ・アンドリェヴナの良人です……彼女は頭痛がして来たもんでちょっと……私が質問に答えたいと思います……」
「それには及びません」
 女裁判官は見透したように微笑んで云った。
「きっと急に工合がわるくなって来たんでしょう……私共は待てますよ」
 相手が出て来ないもんでポツネンと頼りな
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