ぶつかるぐらいだ。
遠く鳩羽毛に霞んだモスクワ市のあっちで、チラ、チラ、涼しい小粒な金色の輝きが現れたと思うと、パッと公園の河岸で一斉にアーク燈がついた。
コンクリートの散歩道、そこを歩いてる群集。そういうものがにわかに鉄の欄干の上で際立って、水の上は暗くなった。音楽の響が一層高まった。
「さ、行こうよ、早く」
アンナが、浮々してせき立てた。
「芝居がはじまるよ、直ぐ」
「七時半からだよ」
「――だって……もう直ぐだよ」
河岸の水泳場のそばに一隻の水雷艇が碇泊している。真白い服をつけ真白い靴をはいた赤衛海軍士官。帽子のリボンを河風にヒラヒラさせている水兵。新鮮な子供の描いた絵みたいな景色だ。彼等は無料で希望者に艇内を観せ説明をしてやってる。
むこうの丘の上には、政治教程の講堂と図書室。科学発明相談所がある。
曲馬がかかってる。
托児所は、千人を収容する大食堂のわき、花園と噴水のかげだ。
ガラス屋根の絵画展覧会。午後十時まで。
活動写真館。
アンナがわいわい云う芝居というのは「農村と都会の結合」広場のわきに、自然の傾斜を利用してこしらえた露天劇場だ。
ベンチはとうに一杯で、信吉たちが行きついたときは、遠くの芝草へ足をなげ出して、明るい舞台の上で人間の動くのだけを満足そうに見下してる男女も幾組かある。
「これじゃ仕様がないや」
アグーシャは先に立ってブラブラ行ったが、急に勢よく振りかえっておいでおいでした。
「いいもんが始るヨ! はやくウ」
五
数百人の輪だ。
中央に高い台があって、運動シャツ姿の若い女がアーク燈の光を浴びながらその上に立ってる。テントの方から労働者音楽団が活溌な円舞曲を奏し出すといっしょに、
ソラ、右へ、右へ、
一 二 三 四!
一 二 三 四!
かえって。
左へ
一二 三 四!
足踏をして!
一二 三 四!
ウォウ――!
合図につれて数百人の男女が笑いながら声を揃えてウォーオ……!
サア
手を振って
高く! 高く!
一二 三四!
見ず知らずの者だが仲よく手をつなぎ合って、前へ進んだり、ぐるりと廻ったり、調子をそろえ、信吉たちは汗の出るまで二かえしも陽気な大衆遊戯をやった。
やっぱり見ず知らずの若い者多勢と、今度は別な砂っぽい広場で「誰が鬼?」をやった。
一人が目をつぶって片方の肱から手の平を出してる。グルリとかこんだ者の中から誰か、しっかりその手の平に平手打ちをくわして、素早く引こむ。サッとみんなが同じように指一本鼻の先へおっ立てる。中から、誰が鬼か当てる遊びだ。
ハンケチで顔を拭き拭き、わきから眺めてるうちに、信吉は興にのって、鬼に当った男の手の平をピッシャリやってヒョイと指を立てた。
「お前だ!」
アグーシャをさした。
「違う」
「そうじゃないよ!」
「さァ、さァ、もう一遍だ」
ピシャリ!
「そら、今度こそ当った! お前だよ」
アンナをさした。誰かがキーキー声で、
「お前、どうしてきっと女が自分を打たなきゃならんもんときめてるんだ! 変な奴!」
「――騙すなよ、おい」
伴《つ》れらしいのが、大笑いしながら、
「本当に、お前が当てないんだから仕様がないよ、サァ、目をつぶったり、つぶったり」
計らず信吉はその鬼から煙草一本せしめた。信吉の手が小さくて、そのノッポーで感の悪い労働者には、男だと思えなかったんだ。
金がかからない楽しみでだんだん活気づき、信吉たちは、いい加減くたくたになるまで公園中を歩きまわった。赤い果汁液《クワス》を二本ずつも飲んだ。ベンチに長いこと両脚をつき出して休んだ。
「さ、引きあげようか」
河岸をブラブラ公園の出口に向った。
信吉はとっくに鳥打帽をズボンのポケットへつっこんでしまってる。黒い髪をいい気持に河の夜風が梳《す》いた。
不図《ふと》、何かにけつまずいて信吉は、もちっとでコケかけた。靴の紐がとけてる。
河岸の欄干側へ群集をよけ、屈んで編みあげかけたら、紐が中途で切れてしまった。
畜生! やっと結んで、信吉はいそぎ三人を追いかけた。
ところが、大して行くわけがないのに、見当らない。信吉は、注意して通行する群集、日本の縞の単衣みたいな形の服を着てお釜帽をかぶった、トルクメン人までをのぞきながら逆行して来た。見えない。――
フフム! 信吉は閉ってる新聞売店の屋体の前までさり気ない風でブラブラ行って、急に裏へ曲って見た。紙屑があるだけだ。
あんなちょっとの間にハグレたんだろうか。半信半疑だ。
信吉は、河を見晴すベンチの一つへ腰をおろした。
もう水泳場は閉められて、飛込台の頂上にポツリと赤い燈がついてる。むこう岸の職業組合ボート繋留所の屋根には青色ランプだ。後を絶間なく喋ったり
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