へえ……。仕事台の前へ立った信吉の写真が壁新聞に出てる。
「おきき。読んだげるから。
[#ここから2字下げ]
われわれの工場の旋盤部へ、はじめて一人日本の若者が入って来た。セリサワ・シンキチ。二十二歳だ。貧農の三番息子だ。アルハラの××林業で働いていたが、そこでソヴェト同盟の労働者がどんなに暮しているかという話をきいた。モスクワへ逃げて来た。旅券なしだった。
モスクワではじめ煉瓦砕きをした。それから『鋤』の旋盤第三交代へ働くようになった。
彼は、まだロシア語を読書きは出来ない。だが、もうオソアビアヒムと、モプルの会員となった。
[#ここで字下げ終わり]
[#地より3字上げ]労働通信員 グーロフ」
「ふーむ」
「間違わずに書いてある?」
「ああ」
「この写真、誰がとったのかしらん」
オーリャは、紺の上被りの結びめが可愛くつったってるオカッパの背中をかがめて、シゲシゲ写真を見た。並んで信吉も、ひとの写真を見るようにそれを眺めながら、
「グーロフだ」
「……似てるわ」
クラブを出て、花壇を歩きながら、オーリャが、
「お前、家族ないんだろ?」
と云った。
「ない」
「私知ってるよ、今、お前自分で自分に満足してやしないんだ」
「…………」
そりゃ本当だ。
カンナの花のわきで、オーリャがぴたりと立ちどまった。
「お前、お書き。……そうすりゃすっかりよくなるよ。……書くだろう?」
太陽はキラキラ照りつけて、工場の三本の煙突も、カンナの大きい花も、オーリャのすらりとした素脚も、青空といっしょに燃えるようだ。
「書く?」
「うん!」
「そうしなくっちゃいけないさ。〔十三字伏字〕、〔四字伏字〕区別なんぞないんだ。そうだろ?」
「俺は……」
「わかってるよ。ブルジュアの魔法さ」
オーリャは、信吉の顔の前で、艶々した唇をトンがらかして呪文をとなえる真似をした。そして笑い出した。
「さ、握手しよう!」
信吉[#「信吉」は底本では「信者」と誤植]はしっかり、細い、だが力のあるオーリャの手を握った。
「さきへ行って、食堂んとこで待っといで。いい? 私、コーリャよんで来てやるから。あの子、がっかりしてたよ、さっきは――」
信吉は、元気に手をふって花壇を足早に工場学校の方へ行くオーリャの後姿を長いこと立って見送ってから、食堂へ行った。
四
シッ!
シッ!
ひろいモスクワ河を、ボートがゆっくり溯っている。
上流に鉄橋だ。
右岸は空地で電車終点だ。西日で燦めきにくるまれた空に遠い建築場の足場が黒く浮立ち、更に遠方で教会の円屋根が金色に閃いてる。
ボートを借りて来た職業組合ボート繋留場の赤紙の下では、後から来た一団の男女が、手前へかきよせられるボートを見てる。立ってる一人一人の姿が小さく、ハッキリ中流から見えた。
左手はひろい「文化と休み公園」だ。
水泳の高い飛び込み台がある。水をはねかしたり、泳いだりする頭、肩、腕がゴチャゴチャ台の下にある。女の貫くような、嬉しそうな叫び声。笑いながら若い男がよく響く声で何か云ってる。バシャ、バシャ水を掻く音。
公園から音楽が聴えて来る。
ミチキンは黙ったまんま、休み日の愉しさを一漕ぎごとに味ってるように、力を入れて漕いでる。
今日はミチキンにとって特別な日だ。命名日だ。その上、個人営業をやめて靴工場で働くようになってからはじめての休みだ。信吉、アンナ、アグーシャはミチキンのお祝によばれてモスクワ河へ遊びに来ているというわけなんだ。
公園をはずれると、景色がかわった。
楊柳が濃い枝を水へつけ、水ぎわのベンチに年とった夫婦が腰かけて日没のモスクワ河を眺めてる。
オールをあげて浮いているボートがあっちこっちにあった。どのボートにも男女の上にも、いっぱいの西日だ。
河の上の西日は大して暑くない。――
「なに?」
アグーシャが、アンナの目交ぜにききかえし、訝しそうに自分の膝の下で寝ころがってる信吉の顔を見下した。が、彼女の口元もアンナと同じようにだんだん微笑でゆるんだ。
「……わるくないじゃないか――」
ひょっくり信吉が頭をもちゃげた。
「何がよ……」
アグーシャとアンナは声を揃えて笑った。アグーシャが信吉の肩を力のある手の平でポンと叩いた。
「今お前の頭へのっかってた娘は何て名?」
「バカ!」
信吉は赧い顔した。
「どうして? 結構じゃないの? お前だってもうおふくろの裾へつかまって歩く坊やじゃないんだもの」
ミチキンがあっち向いて漕ぎながら真面目な声できいた。
「職場にいい娘いるか?」
「いる」
信吉は、オーリャはここへ来たかしらとボンヤリ考えてたところだったのだ。
鉄橋の下まで行って戻って来たら、公園の下のところは、集って来たボートでオールとオールとが
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