一文だって換えねえぞ!」
信吉が例の丸まっちい鼻をいからかして力んだら、源が、
「雪のあるうちゃ誰しもそう思うのさ。今に見ろ。春んなってアムグーンが流れ出して見ろ。つい、そんなことを云っちゃいられねえようなときがあるんだ」
だんだん会社のからくりがバレた。
それでも、××林業の現場はソヴェトの領土にあるおかげで、労働条件が内地よりズットましだった。ここでは日本人経営の会社に対してもソヴェト労働法がものを云うんだ。山また山の雪の中だが日本人もロシア人なみに八時間労働制だ。時間外労働は二時間ずつ一区切りで割ましがついた。ここでだけは、病気、怪我で休んでも日給は一文もさっぴかれずにとれた。
三
信吉が現場へ来て二ヵ月ばかり経った一月の或る朝だ。ロシアの真冬、七時と云えばまだ暗い。壁の高みに吊ったカンテラの光をぼんやりうけながらストーブを中央に二十何人寝ているのが、ぼつぼつ起きだした。
「……こりゃ今朝はひでえぞウ……かけてる布団の襟がバリバリだあ」
すると、二重硝子をはめた窓下に寝ていたのが、つづいて頓狂に叫んだ。
「ヤッ、こりゃえげねえ! もちっと知らずと寝てたら、ハアそれなりオダブツだぞウ」
いつの間にか細かい雪が窓から入って来て、夜具の裾へ手で掬うほど吹きだまりをこしらえていた。
みんな、厚いメリヤス・シャツのまんま寝る。信吉はその上へジャケツを着こみながら、窓んところへ額をおっつけて戸外を見た。何とも云えぬ艶をもって壮厳な碧黒い空が枝という枝の端まで真白く氷花に覆われた林の間から重く見える。
「ほんとに凍《し》みらあ」
信吉は、起きぬけの素足の指を布団の上で海老にした。
ひどく凍ると空気は板みたいに強《こわ》ばって、うまく吸いこめるもんじゃない。飯場へ行くまでにも髭は白くなるし、頬っぺたや口のまわりが針束で刺されるように痛んだ。
ガヤガヤ云って汁かけ飯を食ってると、信吉なんか口も利いたことない若いのが、防寒帽をかぶって外から飛びこんで来るなり、
「おーい、二十七度だぞウ!」
と怒鳴った。
「ほんとけ?」
嬉しそうな声がした。
「そうはなるめえ、こんでも……」
「見て来たんだぞ、わざわざ事務所へ行って! 二十七度強だアしかも」
「占めた!」
ドスン。誰かが飯台をはった。
「今日は休みだぞウ」
信吉は、キョトンとした顔で、
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