歌ったりして人が通るが、気がしずまって来ると河の漣《さざなみ》がコンクリートにあたる静かな音もきこえる。
「誰が鬼」で貰った煙草をポケットからひっぱり出し、隣の男に火をもらって、信吉はうまそうに吸った。
 何か後で云ってる女の声にきき覚えがある。振向こうとした拍子に、目かくしをされた。
 アグーシャ!……だが――、本能的に自分の目を抑えた女の手頸を握りながら信吉は考えた。太さが違う。そう云えば目の上にのってる両方の手だって、いやに小さい。
――若しか、……信吉は危く、
 オーリャ!
と叫びそうにした。そのとき擽ったく唇を耳のそばへもって来て柔かい息と一緒に、
「――当てて御覧。だあれ?」
「ああ、お前か!」
 信吉はがッかりして大きな声を出した。女はなお手で信吉の眼を抑えたまんま甘えて足踏みするような調子で、
「だれさ」
「わかってるよ」
「だからさ、誰だってのに」
「ええーと、アクリーナ」
 パラリと手をといて、ベンチをまわって来、信吉へぴったりくっついて腰かけた。
「――煙草もってない?」
 信吉は煙草を出してやった。紅をぬった唇をまるめてフーと煙草の煙をはいてる。アクリーナのしなしなした体つきや凝《じ》っと人を見る眼つきには、いやに抓りたいような焦々した気を起させるところがある。「鋤」工場の職場仲間だ。オーリャなんかと工場学校から来た婦人旋盤工だ。
 ジロリ、ジロリ見ながら信吉が訊いた。
「ひとりか?」
「――みんな先へ行っちゃった!」
 火のついたまんまの吸殻を河へ投《ほう》り、アクリーナは、
「ああくたびれた」
 肩を信吉の胸へもたせかけるようにして、小さい白粉入れをとり出した。蓋についた鏡をのぞきこんで脱脂綿の切れっぱじで鼻の白粉を直しながら、
「……お前の国にもこんな大きい河ある!」
「ある」
「公園あるかい?」
「あるさ」
「フーム。……ね、きかしとくれ」
 パチンと白粉入れをフタしながら急に勢こんでアクリーナがきいた。
「お前の国の女、奇麗かい?」
「奇麗なのも、きれいでないのもいらあ」
「……お前、何足絹の靴下もって来た?」
「絹の靴下?」
 ルバーシカ一枚の胸へぴったり若い女の体をくっつけられ少なからず堅くなりながら正面向いて返事していた信吉は、アクリーナの顔を見直した。
「何だね……絹靴下って……わかんねえよ俺にゃ」
「狡い奴!」
 クスリと
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