いなア、相変らず。
 ちょいちょい信吉は人の多勢いるドアの方を見た。それらしい姿が見えないうちに休憩が終って、みんなガタガタ室へ入って来た。
 ベンチは一杯だ。窓のところへよっかかって立っている数人の男女もある。
 つき当りのドアがあいた。書類を抱えたキチンとした身装の二十三四の男が現れ、赤い布をかけた一段高い大机に向って腰かけた。続いてもう一人。――
 ははあ、あれが劉の云った陪審官てんだな。
 信吉は、鳥打帽を握って頸をのばし、一心にそっちを眺めた。
 女の書記が着席した。
 いよいよ裁判官の番だ。が、同じドアから軽い靴音を立てて入って来た裁判官を見ると、信吉はホホウと目を大きくした。女だ。四十三四の、細そりした落着のある女の裁判官だ。
 ソヴェト同盟へ来てから信吉はいろいろ新しいことを見た。が、女の裁判官たア……。室は水をうったように鎮まった。
 深く卓子《テーブル》の上へ両腕をのせ、書類をひらく質素な白ブラウズの女裁判官の様子はいかにも物馴れてる。一言、一言ハッキリ語尾の響く声で何か読み上げはじめた。
 それがすむと、重ねてある書類の一つをとり出して、
「ナデージュダ・コンスタンチーノヴァ・ミチコヴァ」
 呼びあげながら、一わたり室内の群集をゆっくり端から端へと見渡した。信吉の一側前のベンチから、紺色の服を着た若い女がいそいで立って、壇の前へ出た。
 信吉は、顎をツン出して女裁判官の方を見ながら、今に自分の名が呼ばれるかと気を張った。ちがった。別の名だ。
「ワルワーラ・アンドリェヴナ・リャーシュコ」
 ――誰も出て来ない。
 女裁判官は、練れた声を少し高めてもう一遍呼んだ。
「いないんですか?」
 みんな、ザワめいた。赤い布で頭を包んだ女がベンチから立ち上りながら、
「さっき、ここにいたのに」
と、廊下の方へさがしに行った。
 すると、
「同志裁判官……」紺ルバーシカを着た猫背の薄禿げの男が前列のベンチから立ち上って、妙に押しつけがましい口調で女裁判官に云った。
「私は……ワルワーラ・アンドリェヴナの良人です……彼女は頭痛がして来たもんでちょっと……私が質問に答えたいと思います……」
「それには及びません」
 女裁判官は見透したように微笑んで云った。
「きっと急に工合がわるくなって来たんでしょう……私共は待てますよ」
 相手が出て来ないもんでポツネンと頼りな
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