「ふーん――ハゲの奴、ちょいちょい三号バラックなんぞさ行くのか?」
「見張ってやがんのよ」
「なして! バカバカしい。一つとこで働いてるロシア人にも近よっちゃいけねのか?」
「だって、お前」
 松太は、ゆっくりした口調で云った。
「日本人夫がみんなソヴェト労働者のやり振りを知った日にゃ、このまんまじゃ〔五字伏字〕」
 橇へつけて出す材木へ二人して符牒を入れているところだ。
「会社は日本人夫をあっちさ近づけめえ、近づけめえとしているんだ」
「…………」
「ロシア人夫あ、お前、俺等みてえにてんでんバラバラに狩りあつめられて来たんじゃねえ。自分の組合もってて、政府の職業紹介所から団体契約で来てるんだ。そんだから、××林業にとっちゃ日本人夫なんぞ一人や二人どうしようとこわくねえ。奴等の都合で難癖つけて今日んでもボイこくれるが、ロシア人夫にそりゃ出来ねえんだ」
「なしてだい」
「組合の規則でよ!」
 太い声を松太が出した。
「ソヴェトじゃ、組合の規則で労働者がてんでの権利ってものをちゃんときめているんだ。賃銀のたかも、解雇するにも組合の規則でやらなくちゃなんねえ。工場なんかじゃ、お前、一年に一ヵ月も有給休暇があって、労働者が休みに行く家まで政府からわり当てられているんだとよ」
 また別なとき、松太がこんなことを云った。
「こんな山ん中じゃわかんねえが、なんでもモスクワは今大した景気でおっつけアメリカ追いこすぐれえだとよ。どこもかしこも人増しで、引っぱり凧だとよ。日本の不景気た大ちげえだ!」
 信吉は、だんだん自分が来ている土地について考えるようになった。
 山から上って、バラックでみんな寝ころがってボヤボヤしているようなとき、信吉は急に、こうしちゃいられね! という気になって坐り直した。とってもおかしいじゃねえか。ここは世界のどこにもまだ無い労働者の国なんだ。ソヴェトだ。××林業の日本人足のバラックだけが、わざと痺《しび》らされて何にも知らずボーとしてるが、つい山の外じゃ、もっと、もっと何か素晴らしいことがあるに違えねんだ! そうじゃねえか? ここの地べたに生えてる木を伐ってるだけで、八時間労働に有給休日という、内地じゃめぐり会えねえ思いをしているんだ。
 信吉は、目立たないようにハゲ小林からルーブリをひき出した。
 春になった。アムグーン川が流れだした。日本人夫は、トビ口
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