リシチ・クズニェツォー※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]が、私に何か話せといいました。だけれど、私のロシア語は下手だから、みなさん、知りたいと思うこと私にきいてくれませんか? 私の知っていることなら答えたいと思います。
 日本女は、まるで柔かい発音で、
 ――私のいうこと、わかりますか?
 と問いながら、まわりに重なっている婦人講習会員の顔を見まわした。
 ――わかる!
 ――わかります。
 ――心配しなさるな!
 クズニェツォー※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]は今日も繭紬の布《プラトーク》だ。たっぷりした胸つきで、みんなの横に立っている。日本女に向って鼓舞するように頭をふった。
 ――…………
 ――あの――日本に……日本では女が参政権を持ってるんでしょうか?
 二重に重なった頭の奥からのびあがって第一に質問したのは、白ブラウズを着た髪の赤い女だ。
 日本女は、持ってないと返事した。日本では全国労働者総数の五十一パーセント、女が占めている。けれどもそのおびただしい女のほとんど大多数は男の半額の賃銀で搾取されているだけで、選挙権などは持ってないのだ。
 前列の机に両肱かけて坐っていた若い女が、
 ――御覧!
 よこに並んでいる年上の仲間に、怒ったように低い声でいった。
 ――そいで、あすこは、どんな村でも電燈をつけて、文明国だって!
 それから日本女に向って、高い声で訊いた。
 ――女は結婚や離婚の自由をもってるんでしょうか?
 誰かが小さい声で、
 ――あすこじゃ、籠に入れて女の子を売るんだって……
といった。
 ――八つで結婚させるって。
 クズニェツォー※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]が声のした方を見た。そして訂正した。
 ――それは支那やインドのことで、今の日本のことではありません。
 質問はつづいた。
 小学校は共学か?
 女は男の大学や専門学校へ入れるか?
 農村の女の生活状態――労働はどんなか?
 日本の農村の主な生産はなにか?
 日本に組合があるか?
 共産党はあるか?
 都会の工場のストライキのとき農村は実際的の助けをすることを許されるか?
 託児所、健康相談所はどのくらい発達しているか?
 日本女は、婦人講習会員たちの質問に深い興味を感じた。熱心に知っているかぎり説明した。箇条を見てわかるように、彼女たちは、農村ソヴェトのために活動する者としてのはっきりした立場から問いを出している。(市町村ソヴェトは上級ソヴェトと同様内部に文化部、衛生部、政治部その他専門部をもっている。ソヴェト員のあるものは、文化部員となる、或るものは衛生部員となる。各部はべつべつに集まり、ある問題を決議する。決議を一般集会のとき持ちよるのである。)
 相当しゃべって、ひとりでにみんなが黙った。突然、
 ――日本にも、女房をなぐる亭主が沢山いるでしょうか?
 思わず笑った、一同が。質問した女はどっかへ頭をひっこめている。笑いながら、みんなも日本女も、馬鹿な質問したとは感じなかった。古いロシアの農民はうんと女房をなぐった。亭主のそれが情愛だといってなぐった。そういう時代はもちろん去った。けれどもモスクワ発行の『労働者新聞』の「自己批判」の投書に、こういうのが出ることがある。
[#ここから1字下げ]
 パウマン区何々通五八番地、室《クワルティーラ》十五号に住んでいる某々工場の職工イワン・ボルコフは、一週間に少くとも三遍は酔ぱらって夜中に帰って来る。彼は室の戸を先ずうんと叩いて近所を起こす。次に女房をなぐって、騒動で近所の子供の目まで覚させる。イワン・ボルコフは工場委員会に働いている。労働通信員。
[#ここで字下げ終わり]
「亭主は女房をなぐる権利をもっているのでしょうか?」
 やっぱりこのスモーリヌイの婦人部の仕事で、農村の女を目標にいろんな講話会が開かれた。
 これはそのとき送られた質問の一つだ。

 スモーリヌイでは地階に大食堂がある。
 働いているものが、みんなそこで食事をしたり茶をのんだりした。外から来たものでも四十カペイキでスープと肉・野菜が食える。
 からりと開けはなされた大きい窓から、初夏の木立と花壇で三色菫が咲いているのが見えた。天井も壁も白い。涼しい風がとおる。――日本女は、婦人講習会員の間にかけて、黒パンをたべている。思いついて手提袋から、銀貨と白銅とを少し出した。それは日本のだ。
 ――これは五カペイキにあたるの、それが十カペイキ、そっちのが二十カペイキ……
 手にとりあげて眺めながら、日本女のすぐ隣に坐っている女は黙ってそれを次に渡した。うけとって眺める。まんなかに穴のあいてる十銭を、裏表かえして見て、首をあげ視線をあつめてる仲間を見わたし、一寸肩をすくめるような恰好をして次へわたす。クズニェツォー※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]が、
 ――わざわざもって来たんですか?
ときいた。きのう、ここへ来た時やはり文化部で働いてるムイロフが、記念にといってソヴェトの一ルーブル銀貨をくれた。出来たばかりでピカピカ光ったきれいな銀貨だった。そのお礼に、そんなきれいではないがこの日本銀貨をもって来たのである。
 テーブルへ、三十人近い女がついている。日本銀貨は手から手へまわされ、或るものはてのひらの上へのっけて重みをきいた。が、みんな何ともいわぬ。見てしまったものは、勝手に、
 ――この腫れもの、痛んでしようがない。
 ――きのう何故診療部へ行かなかったのさ。
などとしゃべっている。
 農村で外国貨幣を見ることはない。農民はちょっとでも様子の違う金に対しては極度に警戒的なのだ。
「目をくぼませ、埃まみれになりながら何処へかかけて行く人々で廊下は一杯だった。ある室の戸があいていた。そこでは床へ直かに何人かが眠ってた。そばへ銃を置いて」
「十月」のスモーリヌイの廊下を、こうジョン・リードが書いている。
 今、日本女は、同じ廊下で壁新聞をよんでいた。
 ずっといい天気つづきだ。廊下のはずれのあいた戸から、しずかな川が見えた。ネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]河の支流だ。スモーリヌイの裏を流れている。
[#ここから4字下げ、破線枠囲み]
我々は馬じゃない!
[#ここで字下げ、枠囲み終わり]
 鼻の穴をふくらがした馬の面が壁新聞に描いてある。
[#ここから4字下げ、破線枠囲み]
スモーリヌイの食堂のパン切はいつもひどく大きく切ってある。人々はみんな食べない。半分かじって放ったらかしてあるのをちょいちょい見る。我々は馬じゃない。人間の口に適当な大きさのパンきれがいる。それを幾切れでもたべたらいいじゃないか!
[#ここで字下げ、枠囲み終わり]
 壁新聞発行所が主催で、レーニングラード市外の集団農場見学に出かけた記事がある。工業化債権に、スモーリヌイの勤務者が何ルーブル応募したとかいう報告が書かれている。――
 壁新聞は、СССРじゅう至るところの役所、工場の職場、学校で発行されている。大抵、手書きである。漫画、写真をはったの、新聞雑誌からの切りぬきを編輯したもの。印刷の週刊工場新聞をもっているところでも、職場、職場はやっぱり手書きの壁新聞を、生産予定計画表とならべて自分の壁にかけている。
『プラウダ』が刻々にうつりかわるСССР全土の、世界プロレタリアート全体の問題について書いている。工場新聞は、その問題に当面して一工場としての立場から同じ題目をとりあげる。壁新聞は、もう一段こまかくわかれた職場学級内の遠慮ない発言、要求、自己批判の手段として利用されている。だから人は見るだろう、一日の発行部数十数万の『イズヴェスチア』新聞社の正面昇降機の横にまでも、絵入り手書きの『イズヴェスチア』勤労者壁新聞は、いつもぶら下っているのを。
(うち[#「うち」に傍点]のこういう壁新聞や工場新聞および外のいろんな新聞と連絡を保って、社会主義社会の建設に貢献している労働通信員、農村通信員は、ソヴェトに三十万人以上ある。)
 ――こんちは。
 振かえりつつ見るとムイロフだ。白いゆるやかなルバーシカをきて蓋をあけっぱなした書類入鞄をかかえている。
 ――この間は日本の金ありがとう、今日は何です?
 ――レーニングラード市ソヴェト委員会があるんだそうです。
 金網をかぶせた頑丈な自分の腕時計を彼は見た。
 ――まだ二時間近く暇がある、室へ来ませんかね。
 親切な眼をもったレーニングラード・ソヴェト文化部員ムイロフは革命のとき鍛冶屋だった。一九一三年からの党員だ。はじめて会った時、ムイロフは、大きい手へ逆にもった鉛筆をけずりながらあんたの職業はなんだと日本女に訊いた。「私は作家だ」「ふーむ。作家も仕事をもってる」それから丁寧に鉛筆の削り屑を机の下の紙くず籠へすてて「……リベディンスキーの『一週間』というのは日本に知られてるだろうかな?」といった男だ。
 ――あんたがた、レーニンの室見せて貰いましたかね。
 不意にムイロフが訊ねた。
 ――いいえ。
 彼の室へ来ると、
 ――一寸かけて待っててくれ。
 書類入鞄を机の上へほっぽり出して、いそぎ足に出て行った。
 ――見られるんだろうか、レーニンの室って。
 ――さあ、いいな、もしそういう工合になれば。
 じき、帰って来たムイロフが、開いた戸から首をつっこんで二人の日本女を呼んだ。
 ――出かけましょう!
 手に鍵束を下げたムイロフについてまた廊下へ出た。
 少し行って、廊下を左に曲る、日本女が足のはずみでその前を通りすぎそうにしたごくあたり前の或る木の扉のところでとまった。鍵がうまく合わない。プリントをもって後を通りすがった男が、
 ――開かないのか?
 ――うん、ミーシャが今いないんだ。
 その廊下のもう一方の側にもずらりと同じような室が並んでいる。
 戸が開いた。
 が、日本女はいそがず、見るものはみんな覚えておこうとするような顔つきをして室へ入った。ムイロフも一緒にあたりを眺めながら、
 ――レーニンは十月革命のあいだずっとここにいた、……もと、華族女学校の女中部屋だったところですよ。
 なるほど左の壁には、いくつも並んで水道栓と流しがついていた跡がある。細い部屋だ。つき当りに一つしか窓がない。大きい戸棚が左の壁と窓との間に立っている。戸棚には錠がおろされ、赤い封印がついている。
 ――住んでいたのはこっちです。
 三尺の戸がついていて奥の室へ通じる。入口の室の倍ほどの大きさの四角い室だ。どっちにしろごく小さい室だ。むきだしの木の床に粗末な赤ラシャ張りの椅子が三四脚ある。バネがこわれた長椅子がある。机は相当大きいが、ひどいものだ。鉄寝台の、すっかりバネのゆるんで下へたれたのが二つ、たれ幕のうしろに並んでいる。ここは窓が二つだ。が入口はない。どうしても、手前の、水道栓のあとのある室を通って来なければ、こっちへ入れないように出来ている。
 レーニンは十月革命前後から、モスクワへ首府をうつすまで、この一室で、この椅子で、妻のクループスカヤと仕事していたのである。
 レーニンは、外国亡命中にも、いろんな都会や田舎で、いろんな室に住んだ。モスクワのレーニン研究所所属レーニン博物館へ行ったものは、レーニンがウリヤーノフという本名で中学生だったころ、どんなに行状のよい優等生であったかを知るとともに、クレムリンに政府が引越して来てから、レーニンがどんな室に住んでいたかも、見ることが出来る。
 そこには、世界的に流布された『プラウダ』を読むレーニンの写真でなじみの机がある。三つのガラス戸つきの本棚が立っている。皮張椅子が三つ。そして、壁には地図がはられ、もう一つ貼紙がある。「禁煙」。この室に寝台はない。
 だが、レーニンが住んでいた室という写真の他のどれを見ても、机がきっとあると同時にきっと粗末な寝台がうつっている、彼がそれだけ、いつも倹約に生活していたことの証拠だろう。
 ――元、この室にいろんなものが陳列してあったんですが、それはレーニン博物館へ集めてしまった。
 ムイロ
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