スモーリヌイに翻る赤旗
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)学者生活保全《ツェークーブ》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)「|学者の家《ドーム・ウチョーヌイフ》」
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)ネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]河
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レーニングラードへ
夜十一時。オクチャーブリスキー停車場のプラットフォームに、レーニングラード行の列車が横づけになっている。
麻袋。樺の木箱に繩でブリキやかん[#「やかん」に傍点]をくくりつけたもの。いろんな服装の群集は必要以上にせき込み、頸をもち上げて前の方ばっかり見ながら押し合った。
三等車は鋼鉄だ。暗い緑色に塗ってある。プラットフォームの屋根の直ぐ下に列車の黒い屋根があり、あたりはあまり明るくないところへ、並んでるどの車もくすんだ色だから陰気に見えた。
国立出版所に働いてるナターリアが、
――所書なくさないようにね、ああ、それから荷物のそばにきっと一人いるようになさい。
手と異常に大きい眼とで別れの合図をした。が、それは、すぐ見えなくなってしまった。
入って見ると、三等車の内部は暗いどころではなかった。ごく清潔な家畜小舎に似てる。黄色くひかっている。坐席は二段になって、上の方でもゆっくり寝られるようになっている。二人の日本女は向いの羽目にろうそくを入れた四角なカンテラの吊ってある隅の坐席におさまった。
その車はすいていた。
間もなく一人若い女がやって来て、日本女の前へ席をとった。ソヴェト市民が、その中へパンでも修繕にやる靴でも入れて歩いているところの茶色布張の小鞄一つが彼女の荷物だ。帽子をぬいだら金髪が三等車の隅の明りで見なれぬ美しさにかがやいた。
その女は旅行なれた風で、暫くするとその小鞄を膝の上で開け、地味な室内着を出して、坐ったまま上から羽織った。脚を揃えて坐席の上へあげ、静かに板の上へ横になった。
ソヴェトの三等夜行列車では、一組一ルーブル前後で敷布団、毛布、枕が借りられるのだ。しかし、若い女は借りない。二人の日本女は革紐を解いて毛布と布団をとり出した。色の黒い方の日本女は毛布と書類入鞄とを先へ投げあげといてから、傍の柱にうちつけてある鉄の足がかりを伝わって上の段へあがってしまった。
下の坐席でもう一人の日本女が鞄を足元へ置こうとしたら、綺麗な髪を蔭においてふしながらそれを見ていた若い女が、
――枕元へおいた方がいいでしょう。
と注意した。
――私どもきっとぐっすり眠っちゃうから、明日の朝まで荷物見るものがないでしょう? だからね。
そういって笑った。
鞄を頭の奥へ立て、布団を体にまきつけ、やっと二人目の日本女も横になった。
レーニングラード、モスクワ間八百六十五キロメートル。車輪の響きは桃色綿繻子の布団をとおして工合よく日本女をゆすぶった。坐席はひろくゆったりしている。南京虫もこれなら出そうもない。――そうだ。
革命の時代は、三等車かそれとも貨車の中へいきなりわらを敷いて乗って行く方がずっと安全だった。なまじっかビロードなどを張った軟床車よりは。当時シラミは歴史的にふとっていたのだ。シラミはチフス菌を背負って歩いていた。――
今この三等夜汽車で靴をはいたまんま寝て揺られている旅客の何人かが、一九一七年から二一年までの間にその光栄あるСССРの歴史的シラミを破れ外套の裾にくッつけてあるいていなかったと誰がいえる。さっき、その大きい二つの眼をステーションの雑踏のうちへ吸い込ませた二十五歳のナターリアはその年、中学校の女生徒だった。彼女は貨車へのっかってフィンランドの国境まで行った。貨車を引っぱっていた機関車はとてものろくはしった上、まるで思いがけないところで立往生した。すると若いもの達は貨車の中からとび出して森へ行った。森で彼等は白樺の木を伐った。機関車はそれをたき黒煙をあげてはしり出し彼女等は貨車の真中に煙突を立てているさびた鉄ストーヴで麦粉の挽きかすをドロドロな粥に煮て食った。しかもそれを日に二度だけ皆が食い、食糧委員長をしていたナターリア自身は一度しか食べない時があった。
一人の日本女がレーニングラード行の夜汽車に寝ていること、零時五分に車掌が天井の電燈を二つ消して車内を一層眠りよく薄暗くして去ったことと、それとの間に何のつながりがあるだろう? 日本女は感じている。彼女の体に響いているレールの継ぎ目一つ一つはかつて「十月」、たとえばナターリアの小さい行跡が記録されないと同じく記録されない革命的プロレタリアートの行跡によって獲得されたものであることを。ペテログラードはレーニングラードに変った。そこにやはり記録されざる個々の行跡の偉大な堆積がある。
学者の家
その部屋へ入ったとき日本女は軽くめまいがした。
旧ウラジーミル大公の家の大きい二つの窓の下をネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]河が流れている。はやく流れている。どこを見わたしても船一艘ない水ばかりがひろく、はやく流れている。
むこうで遠く水に洗われているペテロパヴロスク要塞の灰色の低い石垣が見える。先が尖って、空に消えて見えないような金の尖塔が要塞内からそびえ立っていた。太陽はどっか雲の奥深いところにある。
窓の真下は冬宮裏の河岸だ。十九世紀ヨーロッパの立派な石の河岸だ。人は通っていない。太い鉄の鎖がどっしり石柱と石柱との間にたれ、わらが数本ちらばっている。ネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]河は絶えずはやく流れ、音なくはやく流れている。――
静かさはどうだ。
明けがた汽車の中で目をさましたとき日本女は、窓からもう一つ水の景色を見た。野原で草が茂っていた。初夏の青草だ。どっから来たのかわからない水が浅くひろくその原を浸していた。水づかりの原に壊れて雨風にさらされた牧柵が立っていた。少し行ったら水かさのました川で柳があたまだけ水から出して揺れていた。
雪解け後は乾ききったモスクワから来るとそういう風景は、水っぽく寂しく、いかにもヨーロッパ北部の感じだった。
ここにまたネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]河が流れている。一九一七年の十月二十五日払暁三時半にはこの河を巡洋艦「アウロラ」がさかのぼって来て、冬宮に砲口を向け碇泊した。それは輝かしい焔の記念だ。が、今ここには美しい寂寥がみち拡がっている。
室内にはやや色のさめた更紗張の椅子、同じ布張のテーブルがおいてある。二人の日本女は急に静かで頭の芯がジーンとなったような気持で顔を洗った。
戸を叩いて、
――もういいですか?
停車場まで迎えに来てくれたNが、柔い黒い毛でつつまれ少し鉢のひらいた頭を出した。
――さあ、どうぞ。
するとNは後を振向いてロシア語で「かまわないそうです」といい、道をゆずって一人の大柄な女を室の中へ入れた。
――「学者の家」の監督やってる人です、とても親切なんだ。
それからロシア語で、
――御紹介しましょう、こちらがエレーナ・アレクサンドロヴナ。
――我等の主婦、ユアサ・サン、チュージョー・サンです。
――おめにかかれて本当に愉快です。
Nが日本語でしゃべっていた間、栗色の目に微笑をたたえてNの顔や二人の日本女の顔を見ていた大柄な中年婦人は、改めてていねいに眼で挨拶し、手を出した。
――今日は。
その手にさわって日本女は変な気がした。というのは、その我等の主婦[#「我等の主婦」に傍点]はまるで札幌にいるイギリスの独身女宣教師みたいに力を入れない握手をしたのだ。まるきり手を握らないことはソヴェトで珍しくない。だがこういう握手――
――フランス語おはなしなさいますか?
まわりがあまり静かすぎるのと一緒に日本女は気がむしゃついた。
――私どもなら話しますからどうぞ。
――英語は残念ながら私にわかりません。
エレーナ・アレクサンドロヴナは当然の結果としてロシア語で愛想よくいった。
――この「学者の家」へ日本の女のかた、特に作家などを迎えたのはこれがはじめてです。どうぞゆっくりしていらして下さい、室はお気に入りましたか?
――ええ、大層、……ありがとう。
Nはこの主婦[#「主婦」に傍点]にすっかり馴れているらしく、
――実際いい室だ、ここは!
ズンズン窓際へ行って河を眺めた。
――こんなに景色のいい室はそうないんだ。僕んとこから要塞なんか見えない。
――ね、Nさん!
エレーナ・アレクサンドロヴナはNを呼んだ。
――まだ朝飯あがってないんでしょう?
――停車場から真すぐ来たんです。
――我々んところの食堂は十二時でないと開かないんですけれど、お湯は台所にいつでも沸いてますから御自由にお茶あがって下さい。
彼女は、二人の日本女に説明した。
――台所もおつかいになっていいんです、皆さんここでは家のようにやってらっしゃるんですから、室の鍵は、お出かけんなるとき台所にある箱の中へかけておおきんなって下さい。
ソヴェト内閣直属で、学者生活保全《ツェークーブ》委員会というのがある。「|学者の家《ドーム・ウチョーヌイフ》」はその委員会に管理されている。ツェークーブは「学者の家」のほかに附属の病院、診療所、「休みの家」、クラブなどをもっている。
モスクワ、レーニングラード、ロストフその他少し目ぼしいСССРの都会は、街のどっかにきっと「農民の家」と看板をかかげた建物をもっている。そして遠いか近いか、やっぱり同じ市のどこかに「学者の家」をもっている。社会主義文化建設のための専門技術家である学者達が、会議、見学、ごくたまに私用でその市へやって来る。外国から来る者もある。ホテルに室がなかったり費用がかかりすぎる場合、静かに簡単な何日かの滞在をするため、事情によっては無料でその「学者の家」を利用する便利を与えられている。
まして外国人である場合、「学者」という定義の解釈が四通八達である実例は、女監督エレーナ・アレクサンドロヴナを母さんと呼びかけそうになじんでここに暮している日本青年Nによって示されている。彼は将来学者にもなるだろう。だが現在のところではNがひどい砂糖ずきである以外学者の徴候は現してない。また、二人の文筆労働者である日本女の滞在によっても証明される。
日本女は、室の隅におかれた大きな旅行籠の前へひざまずき、ともかく茶を飲むべく、四角な茶カン、二本のアルミニュームの匙、砂糖を出して、古風な更紗張テーブルへおいた。
アメリカからエジソンがソヴェト見学にやって来たとする。ゴーリキーがソレントから故郷へ客に来たとする。彼等の荷物にもちろんこんなソヴェト市民の旅行籠なんぞないにきまっている。
時間さえあったらエジソンは「学者の家」を訪問することをこばみはしない。そして、流暢なアメリカ語をしゃべる通弁から、ここが革命までは何という貴族の邸宅であったか、現在は年に何千人の学者に便宜を与えているか、ソヴェト・ロシア文化施設の一端をききとるだろう。が、エジソン自身ここへは泊らぬ。彼の有名な食糧鮭の切身をはかるハカリがないからだけではない。学者でも、エジソンみたいなのは泊らないのだ。
ゴーリキーにしろ、意味なく帝政時代に室内監禁をくったのではない。ウラジーミル大公の食堂に今日一皿二十カペイキのサラダがトマトと胡瓜の色鮮やかに並び、シベリアの奥で苔の採集を仕事としている背中の丸い白い髯の小学者が妻と木彫のテーブルについているのを眺めることは絶対に不愉快でありえない、しかし、ゴーリキー自身のためには別なところにソヴェトが室を与えるだろう。
日本女の室がある方の建物の翼は、ウラジーミル大公時代、親戚とか召使の頭とかが住んでいたのだそうである。うねって、暗い廊下だ。どこにも窓のない壁の厚い廊下には、湿っぽい古くさい匂いがある。
台
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