ナ・アレクサンドロヴナ。
 ――我等の主婦、ユアサ・サン、チュージョー・サンです。
 ――おめにかかれて本当に愉快です。
 Nが日本語でしゃべっていた間、栗色の目に微笑をたたえてNの顔や二人の日本女の顔を見ていた大柄な中年婦人は、改めてていねいに眼で挨拶し、手を出した。
 ――今日は。
 その手にさわって日本女は変な気がした。というのは、その我等の主婦[#「我等の主婦」に傍点]はまるで札幌にいるイギリスの独身女宣教師みたいに力を入れない握手をしたのだ。まるきり手を握らないことはソヴェトで珍しくない。だがこういう握手――
 ――フランス語おはなしなさいますか?
 まわりがあまり静かすぎるのと一緒に日本女は気がむしゃついた。
 ――私どもなら話しますからどうぞ。
 ――英語は残念ながら私にわかりません。
 エレーナ・アレクサンドロヴナは当然の結果としてロシア語で愛想よくいった。
 ――この「学者の家」へ日本の女のかた、特に作家などを迎えたのはこれがはじめてです。どうぞゆっくりしていらして下さい、室はお気に入りましたか?
 ――ええ、大層、……ありがとう。
 Nはこの主婦[#「主婦」に傍点]にすっかり馴れているらしく、
 ――実際いい室だ、ここは!
 ズンズン窓際へ行って河を眺めた。
 ――こんなに景色のいい室はそうないんだ。僕んとこから要塞なんか見えない。
 ――ね、Nさん!
 エレーナ・アレクサンドロヴナはNを呼んだ。
 ――まだ朝飯あがってないんでしょう?
 ――停車場から真すぐ来たんです。
 ――我々んところの食堂は十二時でないと開かないんですけれど、お湯は台所にいつでも沸いてますから御自由にお茶あがって下さい。
 彼女は、二人の日本女に説明した。
 ――台所もおつかいになっていいんです、皆さんここでは家のようにやってらっしゃるんですから、室の鍵は、お出かけんなるとき台所にある箱の中へかけておおきんなって下さい。
 ソヴェト内閣直属で、学者生活保全《ツェークーブ》委員会というのがある。「|学者の家《ドーム・ウチョーヌイフ》」はその委員会に管理されている。ツェークーブは「学者の家」のほかに附属の病院、診療所、「休みの家」、クラブなどをもっている。
 モスクワ、レーニングラード、ロストフその他少し目ぼしいСССРの都会は、街のどっかにきっと「農民の家」と看板をかかげた
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