グラードはレーニングラードに変った。そこにやはり記録されざる個々の行跡の偉大な堆積がある。

        学者の家

 その部屋へ入ったとき日本女は軽くめまいがした。
 旧ウラジーミル大公の家の大きい二つの窓の下をネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]河が流れている。はやく流れている。どこを見わたしても船一艘ない水ばかりがひろく、はやく流れている。
 むこうで遠く水に洗われているペテロパヴロスク要塞の灰色の低い石垣が見える。先が尖って、空に消えて見えないような金の尖塔が要塞内からそびえ立っていた。太陽はどっか雲の奥深いところにある。
 窓の真下は冬宮裏の河岸だ。十九世紀ヨーロッパの立派な石の河岸だ。人は通っていない。太い鉄の鎖がどっしり石柱と石柱との間にたれ、わらが数本ちらばっている。ネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]河は絶えずはやく流れ、音なくはやく流れている。――
 静かさはどうだ。
 明けがた汽車の中で目をさましたとき日本女は、窓からもう一つ水の景色を見た。野原で草が茂っていた。初夏の青草だ。どっから来たのかわからない水が浅くひろくその原を浸していた。水づかりの原に壊れて雨風にさらされた牧柵が立っていた。少し行ったら水かさのました川で柳があたまだけ水から出して揺れていた。
 雪解け後は乾ききったモスクワから来るとそういう風景は、水っぽく寂しく、いかにもヨーロッパ北部の感じだった。
 ここにまたネ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]河が流れている。一九一七年の十月二十五日払暁三時半にはこの河を巡洋艦「アウロラ」がさかのぼって来て、冬宮に砲口を向け碇泊した。それは輝かしい焔の記念だ。が、今ここには美しい寂寥がみち拡がっている。
 室内にはやや色のさめた更紗張の椅子、同じ布張のテーブルがおいてある。二人の日本女は急に静かで頭の芯がジーンとなったような気持で顔を洗った。
 戸を叩いて、
 ――もういいですか?
 停車場まで迎えに来てくれたNが、柔い黒い毛でつつまれ少し鉢のひらいた頭を出した。
 ――さあ、どうぞ。
 するとNは後を振向いてロシア語で「かまわないそうです」といい、道をゆずって一人の大柄な女を室の中へ入れた。
 ――「学者の家」の監督やってる人です、とても親切なんだ。
 それからロシア語で、
 ――御紹介しましょう、こちらがエレー
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