にのみ固執し、それに意識を奪われて大局を見誤っている。彼の理解に従っての精神の独立|不羈《ふき》を護ろうとする、その態度を示す自己目的のために急であって、彼が他の場所でははっきり認めているかのようであった、現代の社会・文化対立の関係の中でソヴェトの現実的特質を評価してはいないのである。
ジイド自身にもしこれらの諸点が分っていたらU・R・S・Sの民衆の持っている幸福の可能の現実的根拠、社会生産関係の上での歴然たるよりどころを見のがしはしなかったであろう。ロシアの民衆が過去にもっていた歴史的な桎梏の性質と、今日の事情との間に十九年の歳月が与えた飛躍の実質を看取したであろう。旧社会で、卑俗な日常の幸福の可能が、多く無知と無気力と批判力の喪失にかかっていることを洞察し、それに抗したかぎりジイドは健全であった。しかし、純粋な誠実[#「純粋な誠実」に傍点]へのポーズに負けて、旧社会におけると同じ角度で、同じ性質の矢を放ったとしても、それはソヴェトの現実の的を射ることは出来ない。ソヴェトへの旅行において、ジイドは遂に客観的にソヴェトを語ることが出来ず、従来小説の人物をも理念でこしらえていたように、何かこしらえものを語っている。旅行記の中で、遺憾ながらジイドは昔ながらに自分の前に自己の熱意の投影のみを見ているのである。「何ものかを目指しながら進んでいる」と自身思い、その内容として「個人にその元来の豊富性を回復させ」「今日、文学、文化、文明を発展させ、開花させることの出来る」文化建設のための闘争への自身の生命を結合させていると信じながら、ジイドは、実際に当っては、一般抽象性の中でだけ文化の自由を擁護している。ジイドは自分の論敵が「秩序の愛と暴君の趣味を混同する」者共であることは自覚している。そやつ等に対して誠実、真実を語らんとする自分に、自尊心などということは問題にならぬと「一粒の麦もし死なずば」時代のような勇気を示しているのだが、今日の社会事情の中でジイドのその勇気は、真の勇気たる本質を失っている。彼の論敵たる勢力が「民衆を隷従、蒙昧、無智の状態に引止めて置こうとしている」現代の「非真実」な社会現象との闘いが、今日すべての人間らしき人間の関心事である。それに対して、彼が最も理想とする完全な個人主義の花盛りにまでは、人類として、歴史的にまだ多くの忍耐と時間とを要するとしても、既にその可能は見とおされている新社会の民衆の個性の発展の本質的意味を、明瞭に描き出し、横行している強権に対立するものとして示すことが出来なかったのは、ジイドの所謂《いわゆる》進歩性の本質を疑わしめる。新しい社会の建設過程は多岐、困難であるから、ジイドの観察が嘘ばかりだとは思えない。特に、民衆の個性、自発性の涵養の問題は常にソヴェトにおける文化問題の究明に際して最前面に出されているのであるから。彼は、それらの現象の本質の把握において誤ったことで遂に全体さえも誤ってしまった。
更に、ジイドの混乱の心理的原因として、旅行記の中にうかがえる微妙な数行がある。それは不思議とも思われる一つの事実であるが、どういう訳かジイドは、その便利な文化的位置にもかかわらず、一九三五年以来の新方針というものを、何か、あるとおりに理解していないらしい。一九二一年の新経済政策当時に、観念的な革命作家たちが陥った混迷に似たようなものに捕えられているのではないかと思われる。これはどういう理由からなのであろう。旅行記の中には説明されていない。只そうらしく推察される暗示的な数行があり、その数行は、ジイドがフランスを出発する以前から、その主観の中で、建設の指導者たちと民衆とを切りはなしたものとして感じていたことをほのめかしているのである。ここにも、ジイドが新社会の批評に当って心理的に拍車をかけられた内奥の秘密が横《よこた》わっているのではなかろうか。
ジイドは、新しい社会が克服すべきものを指摘した過程において、一層あからさまに自己の克服すべきものを示した。彼の旅行記に対する『プラウダ』の批評やその他の批評を、ジイドは、どう摂取するであろうか。これは自分の真実[#「自分の真実」に傍点]であると固執することによって「自分というものが自分が自由に動いたかどうかを了解し得る唯一のものであり、自分の責任を評価し得る唯一のものである」という個人の中に戻り、再び自分の前に空間のみを見ることは、ジイドの欲しないところであろう。ジイドは芸術家としての晩年において、一層自分という個性をより高からしめる実際の課題に逢着しているのである。[#地付き]〔一九三七年二月〕
底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
1980(昭和55)年1月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本
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