ドの面前にひろげて見せた。ジイドは、この時ゴム栽培特許権所有者組合の横暴と一年間闘い、商務大臣の偽の誓約に憤った。「人間こそ先ず建直されねばならぬ」だがそれはどんな道によってであろうか。ジイドの考えによれば「人の最も個性的な状態にいることは、なによりも優れた公益をはかっていることになるのだ」が、資本主義ヨーロッパの社会的現実は、果して、人間を個性的に、真の自分たらしめ得ているであろうか。ジイドが目撃する古い社会には「甲殼類」が充満している。彼等は、ジイドが死よりも嫌う同化主義者、保守主義者、生涯に只の一遍も人間の為に献身しようとしなかったために傷つきもしなかった、無疵のままの利己主義者である。社会の枠がこのままであって、猶且つ人間が建直されるということはあり得るであろうか。極めて自然なこの疑問が遂にジイドの目をソヴェト同盟へ向かわしめた。彼の主観的な知的、感覚的探求心を誘いよせた。そして、六十三歳のジイドはそこに「個々の人間の自由な発展こそ、すべての人間の自由な発達の欠くべからざる条件である」ことを理解し、実現せんとしている新社会を発見したのであった。
ここで、私たちはもう一度改めてはっきりと、ジイドがソヴェト同盟の建設に牽きつけられるにいたった、特殊な主観とその内的構造を弁別しなければならない。何故なら、ジイドにあっては、ソヴェト同盟への傾倒が、その紀行の中でも一寸ふれているように、社会問題の面から結果したのではなく、その当初から全く内的な、心理的な問題として惹起されたのであったから。ジイドがU・R・S・Sに結びついたのは政治家としてでもなく、社会運動家としてでもなく、勤労者生活による利害の教訓からでもなかった。そのことについては彼自身率直に表明している。「……さらに私は自己の無識を感じており、そして日に増し強く感じている。政治、経済、財政上の諸問題は、私が敢て足を踏みいれることに危惧の念を抱かざるを得ぬ分野に属する」これは、ジイドにとって、コンゴー当時からの態度である。一九三五年パリで行われた「文化擁護国際作家会議」でも、ジイドは作家としての「自分の中に持っているもので、自分には最も純正で、最も価値あり、最も健全であると思われるものが、すべて周囲の因習、習慣、虚偽と忽ち、そして直接に矛盾衝突した」、「思うに我々が今なお住んでいるこの資本主義社会では、凡そ価値ある文学というものはこの社会に対立する文学以外のものであるとは考えられない」と云っているのであるが、作家としての彼が一度、この内なる自己と外部との葛藤、相剋をとりあげるとなると、それは全く社会的背景から抽象された心理分析、フロイド風の或はドストイェフスキイ風の意識下のものの探求となり、作品に現れる人物が本質の窮極においては彼の内的所産であることは「狭き門」の頃とかわりない。ジイドは、人間は何を為し得るかをつきとめようとして日常の平安を拒絶する人間精神の冒険者として、人間の個性を本性におくばかりでなく、より高く高くと自己から脱せしめる力として、一九三一年のU・R・S・Sを見た。目的を達したならば更にそこを超えてゆくことを個性のモラルとし、自身の行動の原則としている彼の主観において、ソヴェトの社会が「なすべきことと、したいこととが一致している」ところであると見た。飽くことない探求者、個人主義者のアンドレ・ジイドは、人間を求めて集団生活にたどりついた。「正しく理解された個人主義は当然社会に役立つべきものだ。個人主義をコムミニスムに対立させるのは間違いである」と思うジイド独特の歩きつきで「U・R・S・Sに対する私の同情を声高く語」ったのであった。
作家ジイドの生涯を貫く最も著しい特質、純粋な誠実[#「純粋な誠実」に傍点]を自他に求める情熱への自覚的献身の欲求が、今度のソヴェト旅行では、かえってジイドの現実的理解を制約する力となっていることは、実に意義深い我々への教訓であると思う。旧世界の文化の裡にあって彼を宗教や家庭の因習に立ち向わせ、腐敗から彼の個性を清潔に保たせて来た力は、疑いもなく彼の主観の中に燃えるこの不安な程の純粋誠実[#「純粋誠実」に傍点]への情熱であった。この知的な武器の力を、ジイドは明らかに波瀾の多い生活からの獲物として自ら知っていた。ところが、一方に告白されているような政治的、経済的無識が彼の現実を見る目を支配しているのであるから、ジイドは基本的なところで先ず自己撞着に陥り、観念の中で、心象の中で、把握している新社会の存在が、その本質に於て、違った土台の上に建っている経済的・政治的・文化的現実であることが、具体的にわからなかったように見える。ジイドは、自分がコンゴーを観た観かた、どこでも、何にも目を奪われず、常に絶対に誠実であろうとする自己の主観的な常套
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