の中に披瀝して、恐らく彼と同じ苦痛と疑惑に陥っているであろう「人々の役に立つよう、現して見よう」と思ったのであった。しかし、この作品は、当時まだジイドが宗教や家庭の日常習慣に抑制されていたのと、当時の象徴派の文学的傾向に従っていたので、文体も綺麗ごとに終り、苦しむ青年の魂をひきよせるかわりに、メエテルリンクから「悲しい不思議な、乙女達の愛読書」と評されたようなものが出来上った。
一八九〇年代のフランス文学の潮流は、一方に象徴派が隠遁超脱の城に立てこもり、一方には自然主義者たちが、象徴派の人々の神経病を嗤っているという時代であった。アンドレ・ジイドは「ワルテルの手記」によって後者の庶民的生活力には結びつかず、象徴派のマラルメやアンリ・ド・レニエなどと相識り、爾後四五年間はその温室の中にあって、間接に『法螺貝』、『半人獣』などという雑誌編輯に当り、グループの「最も光彩陸離たる聖職者の一人」となった。
当時のジイドの風貌は黒羅紗の大きな帽子をかぶり、痩せて清らかで、同時に重々しく気取り、オスカア・ワイルドが「僕は君の唇が気に入らないんだ。一度も嘘をついたことのない奴の唇みたいに真直じゃないか」と笑いこけた、その唇から特異な言葉をぽつぽつと語る新進芸術家として描かれている。
閉じこめられたまま清純のまま続いていたジイドの青春は、二十四歳の時、突然その清教徒的規律を破った。彼は在来の周囲に激しい厭悪を感じて友人のロオランとチュニスに旅立った。この船出は、地理上の旅行であるばかりでなく、フランス中産階級の生活の中でも特別な生い立ちをもったジイドにとっては全く幼年時代からの訣別であった。アフリカという未知の地方への出発は、ジイドにとってはとりも直さず未知な生活、未知な自己の個性、未だ跋渉されていない自身の欲望の発見と征服の旅立ちであり、彼はこのとき、初めて、幼年以来身のまわりについていた聖書から自分を引離したのであった。
彼に「地の糧」を書かしめたアルジェリイにおける生産力の横溢と転身の自覚。彼に「パリュウド」をかかしめた、パリ帰来後の孤愁と象徴派との別離。結婚生活の重荷が反映している「背徳者」、それから六年間も間をとんで執筆された「狭き門」、三十歳のジイドの苦悩は、日夜自分の極めて知識人風な内的生活の探求の裡に棲んで、「汝は何ものかに役立たんと欲している」。だが、自分が
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