。モスクワの街を歩くロイド眼鏡の必然性を。メリイ・ピックフォードの夫ダグラス・フェアバンクスの軽業に対する新ロシアの愛好心を。桜の園を媒介として、我々は、ロシアの異様に独特な魂が、現在、自分の魂の一部分をどんな眼で眺めているか、その眼付を理解することができるのだ。ガーエフは、緑色羅紗の上でおとなしく小さな白い球を転《ころが》して一生を終った。今ロシア人は、ひろいグラウンドへ一つの大きい球をかっ飛ばし、それを追っかけ体ごところがり廻る。ロシアの新しい運動、蹴球《フットボール》。一名、動的生活《ダイナミーチェスキー・ジズニ》。球の皮と皮との継ぎ目には“К”とスタンプが押してある。
一ヵ月経った。モスクワの春がむら気に近づいてきた。雪がひどく降った。
雪の中を私はいつも変らぬ我が道伴れとともに借室《クワルティーラ》を見に行った。そこから日本大使館へ廻った。本館の帝政時代のままの埃及《エジプト》式大装飾の中に、大使はぽつねんと日本の皮膚をちぢめて暮している。事務所は、離れた低い海老茶色の建物で、周囲の雪がいつも凍っている。今日は雪が氷の上に降った。
白いタイル張りの暖炉があって、上に薬罐がのっている。爺さんがいる。薬罐から湯気が立っている。我々の眼鏡は戸をあけた時曇った。そこで、私共はハガキと角石を包んだような小包を受けとった。事務所の粗末な郵便棚を、私共は一月に三四度見にくるのだが、先週もその前の週にもあった男名宛のハガキなどが今日迄も受けとられず、ざらついた棚の底にくっついているのを見ると、一種の心持を感じる。この水田達吉とたどたどしげな横文字で書かれた男はどこにいるのか。どんな気持で彼は暮しているか。音信を絶った心が感じられ、外国暮しの微な侘しさがある。――
私共は、待ち設けていもしなかった小包を受け、随分元気に歩いて、夕暮の散歩道《ブリヴァール》をホテルまで帰ってきた。直ぐ紐を剪《き》り、ガワガワ云わせて包紙を開き、中から本を取り出した。私の道伴れは、本を手にとり、真中ごろを開き、表紙を見なおし、彼女の善良な、上気した、齦《はぐき》の出る笑を笑った。その顔を見て、私はもっと笑う。
――でも……小ッちゃなものに成っちゃったねえ。
――いいことよ、決してわるくなくてよ。
――わるくない? 本当に?
――本当に!
私は、なお坐りつづけて読み、読む。そして、私のすぐ傍で暖房《ヒイター》のうねうねの上に腰かけ、やはりその本の一冊を読んでいる彼女に向って断言する。
――本当に、よくてよ。「お前」になってからなんか、調子があるわ。
我々の読んでいる本は、チェホフ全集第十巻「妻に送ったチェホフ書簡集」で、新潮社がモスクワにいる訳者に送ってよこしたものだ。モスクワにいる訳者は、今、高加索《カフカーズ》の靴を爪先にぶらつかせて、私の傍の暖房《ヒイター》に腰かけている。
これは、小さい本だ。量において世界的記録を有する日本の夥しい翻訳本の一つだ。この本も、他の多くの仲間とともに二年後には南京豆の紙袋と化して夜店に現れるだろうか。くだらない本だろうか。私はそうは思わぬ。この本が、ボリソフから届いて始めて訳者の机の上に載せられた時から、我々は共通な興味を感じた。彼女は翻訳する気になった。最初の部分は、小石川の動力の響が近隣の小工場から響いて来る二階で。中頃の部分は、鎌倉の明月谷の夏。我々は胡瓜と豆腐ばかり食べて、夜になると仕事を始めた。彼女はそっちの部屋でチェホフを。私はこっちの部屋で自分の小説を。蛾が、深夜に向って開け放した我々の部屋から部屋へとんだ。最後の分は、駒沢の竹藪のある部屋で訳された。
すべて、人間が自分の内的生命を注ぎ出して書くものには必ずその人の調子と云うものがある。思想的傾向とか、主要観念とかいうものの他、その人の心理的なテンポ、硬度、音波がある。媒介物である文字さえ文法的に正確に捕えたら、その作物の全リズムまで捕えたとは決していえないと私は思う。特定の波長に対しては特定の検波器がある。電波に関するこの中学生的常識は、文学における原作者と翻訳者との関係にも極めて自然に適用される。すなわち、私はこれだけのことを云いたい。私は訳者を識っている。平常着のままでよろこんだり、むずかったり、癇癪を起したり、モスクワへきて、雪で滑ったりする彼女を知っている。そして、チェホフの、この一種特別な妻に与えた手紙を翻訳することにおいて、彼女がかなりな程度まで調和する自身の構造を持っていると。
どの書簡でもそうだが、これらのチェホフの手紙は相変らず賢こい。しかし、彼の出版者マルクスへやった手紙よりは、当然感傷的だ。訳者の思想や文法的知識以上に、彼女の感情がこの翻訳に大切な役割を持った。だから、心持に手綱のかかっている前半より、一
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