がチェホフの劇作の力点であった。――ラネフスカヤは成功した。
 ロパーヒンの成功も私は同じ理由だと思う。彼はラネフスカヤと玉突好きのあまりに紳士的な兄とに、桜の園を別荘地に開放することを頻りにすすめる。ラネフスカヤは、そんなことは思っても見ないし、聴く気もない。ぼーっとして、ただ金の入用とそれがどこからか来なければならない、それだけを感じている。(ここで面白く感じたのは、築地のラネフスカヤとここのラネフスカヤとに現れた、何か伝統の違いというようなものだ。築地のラネフスカヤは、ロパーヒンの云うことをとにかく一応は聴いた。脳髄へ反射させた。そして、そんなこと……できないことだ。――できない――然し何故? 東山千栄子のやや堅いニュアンスの中には、仄かにだが日本の祖先伝来の土地に対する観念がにじんでいた、意識、神経の緊張、潜在的な判断があった印象なのだ。
 ここで、ラネフスカヤは、心の態度が全然違う。彼女は、てんで現実のこととしてこの申出を受けつけない。心どころか神経にも影響しない。内容が理解されない――ロパーヒンの考えは、彼女にとって宇宙外のことなのだ。)
 終にロパーヒンが桜の園を買いとった。彼は、酒を飲んでラネフスカヤの客間へやってきた。今は有名な桜の園の主となったロパーヒンの満悦、親父は農奴であったが、自分は地主になることになったロパーヒンの亢奮。ラネフスカヤは、泣く。桜の園――若かった生活のすべての思い出――母、川で溺れた自分の子供……すべては桜の園とともに自分から去った。ロパーヒンは、泣いているラネフスカヤの腕にさわる。彼はラネフスカヤの泣くのを平気で見ていられない。といって、今になってどうなる? 彼は、もう云うべきことは云った。而してこうなったのではないか。
 ――音楽を! ロパーヒンのために音楽を!
 ――トラッタ! トラッタ!
 ――可愛い母様、新しい生活を始めましょう、ね、新しい生活――
 余儀ない事情によったロパーヒンとラネフスカヤとの関係、行動、その行動を縫い、貫くロシアの魂の感銘。生活《ジズニ》……生活《ジズニ》……。
 幕合いに時間がかかって、最後の幕は大分|晩《おそ》く下りた。たちまち平土間はがら空きになった。一番遅い見物人の一列が、その間をゆるゆると出口に向って動いている。アムフィテアトルのところは暗い。そこに、ぽつりぽつり、若くない女が残っていた。彼等は動かない。薄暗い中で、座席から立ちかね、感情に捕われている。彼等は、何等かの意味で自分達の桜の園を持っていた。そして今はそれを失った人々だ。ロシアに現在そういう人も多い。――
 我々は閉めかけた場内の売店で、燻肉ののったパンをたべ茶を飲んだ。椅子が逆にテーブルの上にのっている。コップでレモンの輪が黄いろい。
 この演出に、我々はクニッペルやスタニスラフスキー、カチャロフその他昔から深い繋《つなが》りを作品と持っていた俳優が出演するだろうと思っていた。ところが、クニッペルは出なかった。スタニスラフスキーも出なかった。他の誰も。――俳優はすべて、方々の劇場からの臨時かり出しであった。これはただ偶然か、或は意味ある現象なのか。
 演出は決して飛び切りとはいえなかった。でも、我々には二重に或るものを遺して行った。一つは「検察官」とは正反対の性質をもった作品の一列として桜の園は翻訳ではほとんど生命を失うものだ。桜の園の髄を貫いているのは、現在のロシアにおいては過去の社会現象に属する地主と町人との地位交換問題ではない。ある時代のロシアの魂《ドゥシャー》、その魂《ドゥシャー》は、ロシアばかりにしかなくて、ロシア生活の根で二千百三十五万二千平方|粁《キロメートル》の上に発生する感情と智慧はそれから翔び去れないところの魂のある姿なのだ。そうでないとしたら、社会主義者で芸術家である秋田雨雀さんが、大劇場の桜の園を観た一九二八年に漸く、ロパーヒンは悪人じゃありませんねえ、という興味ある評言を発されるようなことがどうして起ろう。築地はそんなに下手に演じたか? 否。例えば汐見の爺やは、ここの爺やより巧に、効果的に演じられた。演じられぬ魂が、築地のリファインされた全舞台の上に、日本に、欠けていたばかりだ。
 もしチェホフの劇作が、真直、ロシアの魂の或る時に迫っているものでなかったなら、桜の園その他の上演が、何故、現代において心理的の問題として討議されるだろう。あの夜、一つ一つの座席を埋めた数千の見物は、兎に角自分達の中にあるロシア魂にぴったりよってくる過去の魂を感じた。彼等はそれを理解しないわけには行かない。あまりわかる。或はやり切れない程わかる。だから彼等は、もう断然ガーエフ的人生を拒絶した彼等は、自分の顰《しか》めた顔の前で手を横に振る。ふう! もう沢山だ! 私は、そこで見る
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