キュリー夫人の命の焔
――彼女を不死にするものは何か、
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)傍《かたわら》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三九年十二月〕
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偉い女のひとというものは、歴史の上で何人かいますし、現在でも世界には幾人かの偉い婦人と呼ばれるにふさわしいひとがいるでしょう。
けれども、ひとくちに偉いと云っても、その内容はいろいろで、えらさの大きさにも亦様々のちがいがあると思われます。よく婦人雑誌の実話などのなかに、たとえば手内職から今日の富豪となる迄の努力生活の女主人公として女のひとの立志伝がのったりしますが、そういうひとの生涯でも、或る意味ではやはりえらいと云えるでしょう。普通の人間の忍べないと思うような辛苦をよく耐えたり、機智を働かして窮地を脱したり、その点では人並以上の生活の力を発揮しているわけですが、そういう立志伝を読むと、多くの場合私たちの心には、何か一筋のものたりない感情がのこされるのは何故でしょう。それはえらいには違いない、けれども、という心持が湧くのは何故でしょう。そこにこそ、人間の本当のえらさの微妙な意味がひそめられているのだろうと考えます。一人の人が自分のためだけに志を立て、自分の成功のためだけに努力し、富を殖《ふや》し、社会的に有名人となったというだけの話をきいても、私たちが真の人間としての偉さにうたれたり、心の高まるような歓びを見出したり出来ないのは自然でしょう。本当の偉さはそういうどちらかというと自分中心の成功に満足している姿のなかには見出せないものです。
キュリー夫人伝は近頃非常にひろく多勢の若い人たちに読まれた本でした。おそらく、この雑誌の読者のかたも読んでいられるでしょう。そして、きっといろいろな感動をうけながら読み終られたことだろうと思います。キュリー夫人は、疑いもなく世界の偉い婦人のうちの一人です。では、キュリー夫人の偉さ、美しさ、私たちの記憶にとどまって困難なときの私たちにとって励ましの魅力となる生気は、彼女の生きかたのどういうところから湧き出ているのでしょうか。
伝記を読んだ方々には御承知の通りに、マリヤは、ポーランドの首府ワルソーで中学校の物理の先生をする傍《かたわら》副視学官をつとめていたスクロドフスキーの四人娘の末っ子として生れました。西暦一八六七年十一月に生れたから、日本が明治元年を迎えた時です。聰明で教養も深い両親の御秘蔵っ子としてのマーニャは、いつも家庭のたっぷりした情愛につつまれて幼い時代を過したけれども、小学生になる頃からは、もうポーランドという国が蒙っていた昔の露帝《ツァー》の圧迫のわけまえをになって、教室で意地わるい視学の問いに、苦しい答えをしなければならないような経験の裡に成長しました。マーニャの家は、貧しいポーランドの貧しい小貴族の端くれで、経済的には決して楽でなかったことは、マーニャの生れた時分既に結核の徴候があらわれていて閉じこもり勝であった美しくて音楽ずきの母が、小さいマーニャのために自分で靴を縫ってやっているという家庭情景の描写のうちにも十分窺えます。マーニャが、ごく集注的な精神をもって生れていたということは、特別私たちの注意をひく点だと思います。毎日五時になって、お八つがすむと、スクロドフスキー家の食堂の大テーブルの上には石油の釣燭台に灯がついて、さて、子供達の勉強がはじまります。キュリー夫人の伝をかいたエーヴは、彼女の尊敬すべき母の子供時代にあってその勉強時間の有様を次のように描いています。「やがてどこからとなく単調な合唱がいつまでも聞えて来る。それはラテン語の詩句や、歴史の年代、或いは数学の与件を、大声で云って見ずにはいられない子供たちの声なのである」その騒々しいなかでも、一旦或ることに注意をあつめたら最後、マーニャの気を外へ散らすということは、どんないたずら巧者の姉たちの腕にも叶うことでありませんでした。大テーブルに向って、両肱をついて両手を額に当て、まわりのうるささをふせぐために拇指で耳をふさいで、マリヤが何かはじめたら、もう彼女の頭脳は吸いこむように働きはじめ、驚くばかりの記憶力のなかへそれをたたみ込むのでした。女学生時代の写真を見ると、マーニャは大変お父さん似です。小さめなきりっとした愛らしい口元も、真面目に正面を見ている力のこもった眼差も。ふっくりした朗かな顔だち、真摯な誠実さのあらわれている風貌などお父さんそっくりです。金メダルを賞に貰って、マリアは女学校を卒業しました。が、その頃から益々切りつまって来た一家の経済のため、スクロドフスキーの娘たちは夫々自活の道を立てなければならなくなって、十六歳半の若いマーニャも苦しい家庭教師と
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