して働きだしました。その頃は一時間半ルーブルという謝礼さえ、若い女の家庭教師に対しては高すぎる報酬と思われていた時代です。ところで、生れつき勤勉で物わかりのいい若いマーニャは、家庭教師としての自分の生活をどんな風に導いていたでしょう。マーニャが世間によくある若い女のように自分の境遇にまけて、一軒でもお顧客《とくい》をふやそうとあくせくしたり、相手の御機嫌を損じまいと気色をうかがったりする卑屈さを、ちっとも持たなかったということは面白いところです。生活の必要から家庭教師をしているけれども、マーニャの心はもっと広い大きい未来のことを考えていました。十七歳の彼女の心の中の考えはまだはっきりした形をとってこそいなかったが、人間の発達を阻むようないろいろの条件には決して屈伏しないで、一人でも多くの人々が充分の文化の光に浴さねばならないこと、そうして社会進歩はもたらされなければならないという事です。
 マーニャは、ワルソーの市中をあちらからこちらへと家庭教師の出教授をして働く合間に、好学の若い男女によって組織されていた「移動大学」に出席して、解剖学、自然科学、社会学などの勉強をしました。そして、そこで学んだ知識をもって、工場に働いている人たちに有益な講義をきかせて、彼等の進歩を扶けようとしました。マーニャが、天性の勤勉さ、緻密で、敏活な頭脳を、こうしてごく若いころから自分の功名のためだけに使おうなどとは思いもしなかった気質こそ、後年キュリー夫人として科学者、人間としての彼女の真価をきめるものとなったと思います。
 姉のブローニャが巴里へ行って勉強する費用をすけるために、自分は三年の間、ポーランドの或る地方の貴族の家の住込家庭教師として辛抱したマリヤ。やっと自分が巴里へ行ける番になって、ソルボンヌ大学の理科の貧しい学生となってからのマリヤが、エレヴェータアなどありっこない七階のてっぺんのひどい屋根裏部屋で、時には疲労と空腹とから卒倒するような経験をしながら、物理学と数学との学士号をとる迄がんばり通した四年間。マリヤがそういう生活に耐えて、二十六歳のころ物理は一番で、数学は二番という成績で学士号を得たのが、決してただの負けじ魂や女の勝気や名誉心からではなかったことを、私たちは深く心にとめて味わわなければならないと思います。マリヤは、しんから科学の学問がすきで、そこに尽きることのない
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