の末っ子として生れました。西暦一八六七年十一月に生れたから、日本が明治元年を迎えた時です。聰明で教養も深い両親の御秘蔵っ子としてのマーニャは、いつも家庭のたっぷりした情愛につつまれて幼い時代を過したけれども、小学生になる頃からは、もうポーランドという国が蒙っていた昔の露帝《ツァー》の圧迫のわけまえをになって、教室で意地わるい視学の問いに、苦しい答えをしなければならないような経験の裡に成長しました。マーニャの家は、貧しいポーランドの貧しい小貴族の端くれで、経済的には決して楽でなかったことは、マーニャの生れた時分既に結核の徴候があらわれていて閉じこもり勝であった美しくて音楽ずきの母が、小さいマーニャのために自分で靴を縫ってやっているという家庭情景の描写のうちにも十分窺えます。マーニャが、ごく集注的な精神をもって生れていたということは、特別私たちの注意をひく点だと思います。毎日五時になって、お八つがすむと、スクロドフスキー家の食堂の大テーブルの上には石油の釣燭台に灯がついて、さて、子供達の勉強がはじまります。キュリー夫人の伝をかいたエーヴは、彼女の尊敬すべき母の子供時代にあってその勉強時間の有様を次のように描いています。「やがてどこからとなく単調な合唱がいつまでも聞えて来る。それはラテン語の詩句や、歴史の年代、或いは数学の与件を、大声で云って見ずにはいられない子供たちの声なのである」その騒々しいなかでも、一旦或ることに注意をあつめたら最後、マーニャの気を外へ散らすということは、どんないたずら巧者の姉たちの腕にも叶うことでありませんでした。大テーブルに向って、両肱をついて両手を額に当て、まわりのうるささをふせぐために拇指で耳をふさいで、マリヤが何かはじめたら、もう彼女の頭脳は吸いこむように働きはじめ、驚くばかりの記憶力のなかへそれをたたみ込むのでした。女学生時代の写真を見ると、マーニャは大変お父さん似です。小さめなきりっとした愛らしい口元も、真面目に正面を見ている力のこもった眼差も。ふっくりした朗かな顔だち、真摯な誠実さのあらわれている風貌などお父さんそっくりです。金メダルを賞に貰って、マリアは女学校を卒業しました。が、その頃から益々切りつまって来た一家の経済のため、スクロドフスキーの娘たちは夫々自活の道を立てなければならなくなって、十六歳半の若いマーニャも苦しい家庭教師と
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