ち。ほかの日には書斎のカーペットがすり切れているほど机のぐるりを歩き廻って、朝九時から夜中まで仕事しているカールも、日曜日ばかりはイエニーと子供たちとの完全なとりこになった。カールは子供たちが小さかった時、こういう散歩の道みちに無尽蔵の即興お伽噺をきかせてやった。一人の娘をカールが肩車にのせ、もう一人の娘をW・リープクネヒトが肩車にのせ、息の切れるほど駈けっこをする「騎兵遊び」はマルクス家専売の大人と子供の遊びであった。娘たちが大きくなってからは、彼女たちのシェークスピアの詩の暗誦仲間であり、バーンズの共同の愛好者であった。初孫のジャンがいたずら盛りとなってからは、このジャンがマルクスの最も愛すべき支配者となった。エンゲルスとリープクネヒトが馬になり、カールが馭者台になった。小さなジャンはこの三人の偉大な社会主義者の上に跨って彼の可笑しい国際語で叫んだ。「ゴー・オン! プリュ・ヴィット! ハラ!」(進め! もっと早く! ハラ!)。額から汗を流して遊び戯むれる「大きな子供」のカールをイエニーはわれを忘れて見とれた。直情径行で妥協ぎらいで廉潔なカールは、イエニーから見れば本当に巨人的な子供であった。その鼻の形が示しているように気短かなところがあるカールは、何かにつけてイエニーの驚くべき公平な判断と聰明を必要とした。
イエニーはカールの読みにくい原稿の清書もよくした。けれども、決してトルストイ夫人の「有名な清書」のようにではなく。
一八六七年、遂に世界的な名著『資本論』第一巻が出版された。カールは四十九歳、イエニーは五十三の時であった。
一八六四年の第一インターナショナルの成立。一八七〇年の普仏戦争と、翌年三月十八日に起ったパリ・コンミューンとその悲劇的な、然し名誉ある結末などは、歴史上有名なバクーニンとマルクスとの対立分離をもたらした。激しい国際情勢の変化と、ますます客観的に現実を洞察するマルクスの理論とは、社会発展の革命的段階について、バクーニンと対立した。そのように空想的なプルードンと離れ、主観的なラッサールとも離れて来た。それらの人達が自分を正しい者としようとして論敵マルクスに加える誹謗と、マルクスを最大の敵とみるブルジョア社会とは、カールにあびせられるだけの雑言をあびせつづけた。それらもイエニーの明るく暖い心持を傷つけることは出来なかった。いつの間にかイエニーも世界政治についてしっかりした見識のある一人の共産主義者となっていたのであった。
五十代になったカールの健康は衰えはじめた。ロンドン生活の貧困と心労、ひどい勉強が精力に溢れたカールの肉体をも疲らせ始めた。肝臓病が始まった。一八七四年からはカルルスバードの温泉療法が試みられた。温泉はいくらか利いた。けれども、そのとき、愛するイエニーが弱りはじめた。苦痛の多い経過の長い癌と闘わなければならなかった。六十六歳のイエニーは、もう稀にしか起きられなくなった。いとしい「モール」がこの年は肋膜炎で絶望となった。「それは恐ろしい時でした。」「あんなに合体していたこの二人は、もう同じ部屋に一緒に居ることは出来なかったのです。」末娘エレナーは書いている。彼女と年取ったレンシェンとがカールの命を救った。二人は昼夜ぶっ通しの看病をした。不思議に命をとりとめた「モール」が、病むイエニーの部屋へ初めて行った朝の美しい光景を、エレナーは感動をもって記録している。
「二人は一緒に若返りました――彼女は恋する乙女に、彼は恋する若者に、一緒に人生に歩み入るところの――そして互いに生涯の別れを告げているところの――病みほつれた老人と死につつある老婦ではありませんでした。」
カールはもう一度丈夫になれそうに見えた。その時――一八八一年十二月二日――イエニーが死んだ。「親愛なる、忘れがたき生涯の伴侶」は失われた。最後までよいユーモアを失わず、みなの気を引立てるために冗談をいって笑いまでしたイエニーは、最後の意識が失われようとする時カールに向って云った。「カール、私の力は砕けました。」彼女の眼はいつもより大きく美しく輝いていた。口がきけなくなった時イエニーは娘たちに手を押しつけて、優しくほほ笑もうとした。そしてだんだん眠りに入った。エンゲルスはこうしてイエニーが死んだ時云った。「モールも死んでしまったのだ」と。
エレナーは書いている。「お母さんの一生と共にモールの一生も終ったのです。彼は沮喪しないようにと激しく闘争しました。(略)彼は彼の大著を完成させようと努めました。」
生涯の伴侶の埋葬にカールは立会うことが出来なかった。病気のため医者から外出を禁じられていたから。数人の親密な友人が、彼女をハイゲートの墓地へ送った。エンゲルスの墓前での言葉は次のように結ばれた。
[#ここから2字下げ]
「このような精力と熱情をもち、戦友に対してこれほどの献身をもつ婦人が、四十年近い間に運動のために尽した業績――このことは何びとも語らず、この事は同時代の新聞にも記録されていない。しかし私は知っている。コンミューン亡命者の婦人達がしばしば彼女を思い出すであろうと同様に、われわれ同志はなお更しばしば彼女の大胆、かつ賢明な忠告を惜しむであろう。」「他人を幸福にすることを自分の何よりの幸福と考えた婦人があったとすれば、彼女こそ正しくその婦人であった。」
[#ここで字下げ終わり]
マルクスがイエニーを失った悲しみにうちかって資本論を完成しようとした努力は、寧ろ悲痛な姿であった。カールはフランスに行き、スイスにゆき、今度こそ丈夫になって帰ろうとした。しかし、イエニーのいない地球のあらゆる土地は、彼の体と心とにしっくり合わなくなった。旅行は輾転反側のように見えた。一八八三年三月十四日――イエニーの死後三年目の早春に、人類の炬火のかかげ手カール・マルクスはメートランド・パークの家の書斎の肘掛椅子にかけて、六十五年の豊富極まりない一生を閉じた。[#地付き]〔一九四七年一月〕
底本:「宮本百合子全集 第十五巻」新日本出版社
1980(昭和55)年5月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
1952(昭和27)年1月発行
初出:「紺青」
1947(昭和22)年1月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年6月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング