った「一つの冬の物語」「織匠」などが書かれた。伝記のなかには、たった二三行で書かれているこの話は、最も暗示深くマルクス夫妻とその友人たちとの生活の雰囲気を語っている。カールがイエニーを全く独立の見識をもった一婦人として敬愛し、友人の間にもそれが承認されていたことがうかがわれる。自分で詩も創り、生涯文学を愛したカール。大学生であった許婚のカールか贈られた四冊の詩集を、生涯大事にして持っていたイエニー。愛と人生の苦闘とその勝利とは、生きた詩である。マルクス夫妻は、その死を生きた。イエニーが経済的に困難を極める日々のなかでなおハイネの詩を読んでやり、気分の不安定だった孤独な詩人を慰めてやっていたということは、イエニーの資質の豊かさを残りなく語っているのである。
 パリにおけるマルクス一家の経済的基礎であった『独仏年誌』は失敗して、わずか二号で廃刊した。資金が続かなくなった。その上ドイツ官憲は執筆者たるマルクス、ルーゲ、ハイネ等の入国を禁止し、『年誌』の輸入を禁じ国境で没収した。カールが受取るべき手当も貰うどころではなくなった。しかし、イエニーは空皿を並べたテーブルにカールとその友人を招くことが出来るだろうか。
 カールはパリ発行の『フォールベルツ』誌へ寄稿しはじめた。現代社会の発展は生産のもっと合理的な方法によるしかなく、進歩のにない手は世界の勤労階級であることを理解しはじめていたカールは、「プロシヤ国王と社会改良」というような論文で盛にドイツの野蛮と闘った。ベルリン当局はパリのマルクスという人物が気にかかってたまらなくなって来た。この時、ドイツの有名な自然科学者アレキサンダー・フォン・フンボルトは学者であったにもかかわらず、当時のプロシヤ外相の親戚であるということから、全く恥ずべき役を買って出た。フランス内閣を動かしてマルクス、バクーニン等をフランスから追放させることに成功した。
 イエニーは十四ヵ月でパリ生活を切り上げなければならなくなった。金がちっとも無かった。家賃さえなかった。エンゲルスが骨を折って友人の間から金を集めた。生れて半年ほどの赤児をつれて、マルクス夫妻はベルギーの首府ブルッセルに移った。一八四五年一月のことである。

        四「書物の海」からぬけ出たカール――ブルッセル時代――

 三年間のブルッセル時代はカール・マルクスの一生にとって、最も多忙な時期であった。パリ時代にその国の歴史から革命の歴史とその発展の理論をわがものとし、先進的なイギリスの経済学を発展的に学びとり、同時に哲学の領域では、大学時代からの研究によってヘーゲルからぬけ出し、やがてフォイエルバッハからも育ち出て唯物弁証法に立つ史観と階級闘争の理論を確立していたカールは、ブルッセルにおいて彼の「書物の海」を出た。そして「労働者教育協会」を創り、国際的なつながりでそれを大きくし、一八四七年のロンドン大会で、パリに出来ていたドイツ亡命者の「義人同盟」と合流して初めて「共産主義者同盟」を創った。この第一回大会の決議によってエンゲルスが二十五の問答体で「共産主義原則」を書く筈になった。けれども、エンゲルスの意見でこの問答体の書きかたが変更され「共産党宣言」として「共産主義者の政策をのべる」ことが決定された。第二回のロンドン大会に出席したマルクスは、共産主義者同盟の名によって「共産党宣言」を起草することを頼まれた。一八四八年の一月末、歴史的な「宣言」はドイツ語で書かれロンドンから発表された。「プロレタリアはその鎖のほか失うべき何ものをも持たぬ。彼等は得るべき世界を有つ。全世界のプロレタリア団結せよ。」宣言の簡潔な力強い文章のなかに、エンゲルスとマルクスとがその時までになしとげた、あらゆる科学的研究の結果が具体化されていた。
 第一回ロンドン大会にマルクスが出席出来なかったのは簡単で絶対な一つの理由によった。旅費の工面が出来なかったのである。この窮乏のうちにイエニーは長男の母となった。(エドガーと名づけられた男の子は八歳で夭折した。)
 ブルッセルで、エンゲルスがマルクス家の隣に住んで共に働くようになった。エンゲルスと共に終生変らぬマルクス夫妻の仲間となったワイデマイヤーとの交際もはじまった。イエニーはすべての友人たちのよい女友であり母であった。
 一八四五年にカールは、ベルギー政府とプロシヤ政府連合の追放政策から自身を守るためにプロシヤの国籍から離脱した。故郷なき一家となった。優しい夫であったカールは、二人の幼な子をもつイエニーとこのことについてもよく話しあったことだろう。カールの仕事の歴史における価値を感じ、一家のゆくてにすべての変転を覚悟しているイエニーは、カールの相談を理解しその処置に賛成しただろう。けれども子供達の将来を思い、いまはもう故郷でなくなった故郷の美しいラインの流れを思いおこした時、イエニーの頬を人知れず流れる涙があったことは思いやられる。
 ブルッセルの家では出入りする友人の中にも革命的な時計工、靴工という種類の人々が登場した。枢密顧問官の娘として育ったイエニー。ドクトル・カール・マルクス夫人としてハイネの詩を読んでやっていたパリでのイエニー。そのイエニーはブルッセルで革命家、世界のブルジョアの敵カール・マルクスの妻として、世界の前進する歴史の波頭のうえに生きることとなった。
 一八四八年二月、フランスで二月革命が起りイギリス、ドイツに波及しベルギーでは戒厳令が布かれた。三月三日、ベルギー官憲はマルクスを捕え、マルクス夫人も捕縛して一晩留置場へ入れた。この無法なやりかたは、当時のブルッセル市民を怒らせた。しかし、彼らにマルクス一家の生活を保護する力はなかったのである。マルクスたちは翌日パリへ赴いた。
 パリには二月革命の機運に乗じて母国解放運動を起そうとして、各国の亡命者たちが集っていた。共産主義者同盟の人々の多くがドイツに帰って、さまざまの面で活動しはじめた。カールはドイツの中でも労働者の自覚が一番進んでいるケルン市に行った。二人の子供を連れてイエニーも二ヵ月滞在したパリからケルンに向った。ここでカールは新ライン新聞に入社し、「賃労働と資本」を連載した。一八四八年十一月、カールほか二人の同志が組織していた「州民主主義協会」は、内閣が自分の防衛のために議会をベルリンから他の市へ移そうとするのに反対して、市民軍を支持して一つの檄を公表した。檄はマルクスと二人の同志とを叛逆罪として起訴する種に使われた。公判の結果、一同無罪となった。
 これはイエニーにとって貴重な経験であった。良人カールとその同志たちの行動は「実に犯してよい行動、(略)本来からいえばブルジョアジーの果すべき義務であるべきもの」であるとしたエンゲルスの理論の正当さは、妻たるイエニーの愛情を通して犇々《ひしひし》と理解されたに違いない。プロシヤ政府は外国人の退去命令を発した。国籍なきマルクス一家は今や故郷にあって外国人であった。カールは赤いインクで刷られた『新ライン新聞』の最終版にケルンの労働者への訣別の辞をのせ、イエニーはもちものを質屋に入れ、夫妻はケルンを発った。
 まずカールが、次いでイエニーと二人の子供とがパリに赴いたが、フランス政府はマルクス一家を気候の悪いブルターニュの沼沢地方へ追放することにきめた。一八四九年八月の終りカールはついにロンドンへ渡った。カールは詩人フライリヒラートに書いている。「家内は臨月の身なのにこの十五日にパリを去らなければならない。しかも僕は家内が出発するに必要な金や、当地に移って来るに必要な費用をどう才覚すべきか分らないのだ。」マルクス一家にとって辛酸な一八五〇年代が始まった。

        五 不屈な闘志――ロンドン時代――

 身重なイエニーは肉体と精神との苦痛をこらえてロンドンにたどり着いた。三人の子供を連れて。そして、宝石のようなレンシェンをつれて。愛称をレンシェンとよばれたヘレーネ・デムートはイエニーの少女時代からの召使いであった。レンシェンはこの時以来、一生をマルクス家の悲しみと喜びとの中に費してその勤勉と秩序で一家の軸となった。(マルクス夫妻の死後エンゲルスのもとに暮し、彼女の墓はマルクス夫妻と同じ墓碑の下に置かれた。)
『新ライン新聞』の名誉とケルン市における友人の名誉を救うために、カールはイエニーの銀器類までを含めて一切の財産を売った。イエニーは手紙の中に書いた。「三人の子供と四番目の子供の誕生。それが何を意味するかを知るためにはあなたは此処ロンドンの事情をお知りにならなければなりません」と。
 カールは朝九時から夕方七時まで大英博物館の図書館で仕事をした。エンゲルスの援助と、ニューヨーク・トリビューン紙から送られる一回僅か五ドルの原稿料が生活の資であった。五〇年五月にイエニーがワイデマイヤーに宛て書いた手紙はロンドンに於ける一家の姿をまざまざと語っている。四番目の子供は弱くて夜もせいぜい二三時間しかねなかった。イエニーは乳母を傭えないで、健康を犠牲にして自分の乳を飲ませて育てていた。無法な家主に追いたてをくって、寒い雨の降る陰気な日にカールは妻子のために家を探してかけめぐった。子供が四人いるときくと貸す人がなかった。やっと友人の助けで小部屋が二つ見つかった。家主がマルクス一家のシーツからハンカチーフ迄差押え、子供のおもちゃから着物まで差押えたときくと、あわてた薬屋、パン屋、肉屋、牛乳屋が勘定書を持って押かけて来た。その支払いのためには残らずのベッドが売られなければならなかった。二三百人もの彌次馬に囲まれて、全財産を手放したマルクス一家は新しい小部屋に引移った。
 この年の末、次男ヘンリーが死んだ。二年後に三女のフランチスカが亡くなった。その棺を買う二ポンドの金さえもフランスの亡命者から借りなければならなかった。
「その金で小さな棺を買いその棺の中でいま私の可哀想な子がまどろんでいます。この子が生れた時、この子は揺籃をもちませんでした。そして最後の小さな住居も長い間与えられませんでした。」
 イエニーの日記は溢れる涙を押えている。ロンドンの生活でパンと馬鈴薯の食事は家族の健康を衰えさせるばかりであった。イエニーは病気になった。小イエニーも悪い。丈夫なレンシェンも熱を出しはじめている。カールは図書館へ新聞をよみに行く金のない時さえあった。その時は、トリビューン紙への論文も、書けない。「どうしよう?……」。
 カールは物価の安いジェネバへ引越そうかと思った。しかし彼のとりかかっている「資本論」は大英博物館の図書館なしには完成しない。或る時はイギリスの鉄道局書記になろうとした。これはカールの字体が分りにくいために採用されなかった。
 一八五九年。アメリカを中心としてヨーロッパ中を襲った大恐慌は、マルクス一家の窮乏をますますひどくした。けれどもカールは「万難を排して目的を遂げなければならない。そして僕を金儲け機械にすることをブルジョア社会に許してはならないのだ。」この恐慌の時期に労作『経済学批判』第一分冊が出された。
 ロンドンのディーン街の庭もない二間暮しの生活は、このように困難だった。が、マルクス夫妻の不屈な生活力と機智とは、この生活のなかから汲みとられるだけのよろこびをくみあげた。マルクスの思い出を書いている総ての人々が、なんと忘れがたい楽しさをもって気候のよい日曜日の大散歩の面白さを描いているだろう。『子供とマルクス』という本が書かれたほどカールは子供好きであった。そろそろ娘盛りになっていた娘たちはくらべるものなく優しい父カールをお父さんとは呼ばなかった。顔色や鬚の黒いことで付けたあだ名の「モール」と呼んだ。若い革命家たちがみんな彼を「マルクスのお父さん」と呼んでいるのに。
「マルクス家の軸」であるレンシェンが腕に下げて来るドイツ風の大籠の中の大きい焼肉のかたまり。ゆく先で手に入れる一寸した飲物。仲よくつれ立つマルクス夫妻。嬉々として先に行く子供たち。談笑し議論しながら一団となって来る若き革命家た
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング