なくなった故郷の美しいラインの流れを思いおこした時、イエニーの頬を人知れず流れる涙があったことは思いやられる。
 ブルッセルの家では出入りする友人の中にも革命的な時計工、靴工という種類の人々が登場した。枢密顧問官の娘として育ったイエニー。ドクトル・カール・マルクス夫人としてハイネの詩を読んでやっていたパリでのイエニー。そのイエニーはブルッセルで革命家、世界のブルジョアの敵カール・マルクスの妻として、世界の前進する歴史の波頭のうえに生きることとなった。
 一八四八年二月、フランスで二月革命が起りイギリス、ドイツに波及しベルギーでは戒厳令が布かれた。三月三日、ベルギー官憲はマルクスを捕え、マルクス夫人も捕縛して一晩留置場へ入れた。この無法なやりかたは、当時のブルッセル市民を怒らせた。しかし、彼らにマルクス一家の生活を保護する力はなかったのである。マルクスたちは翌日パリへ赴いた。
 パリには二月革命の機運に乗じて母国解放運動を起そうとして、各国の亡命者たちが集っていた。共産主義者同盟の人々の多くがドイツに帰って、さまざまの面で活動しはじめた。カールはドイツの中でも労働者の自覚が一番進んでいるケルン市に行った。二人の子供を連れてイエニーも二ヵ月滞在したパリからケルンに向った。ここでカールは新ライン新聞に入社し、「賃労働と資本」を連載した。一八四八年十一月、カールほか二人の同志が組織していた「州民主主義協会」は、内閣が自分の防衛のために議会をベルリンから他の市へ移そうとするのに反対して、市民軍を支持して一つの檄を公表した。檄はマルクスと二人の同志とを叛逆罪として起訴する種に使われた。公判の結果、一同無罪となった。
 これはイエニーにとって貴重な経験であった。良人カールとその同志たちの行動は「実に犯してよい行動、(略)本来からいえばブルジョアジーの果すべき義務であるべきもの」であるとしたエンゲルスの理論の正当さは、妻たるイエニーの愛情を通して犇々《ひしひし》と理解されたに違いない。プロシヤ政府は外国人の退去命令を発した。国籍なきマルクス一家は今や故郷にあって外国人であった。カールは赤いインクで刷られた『新ライン新聞』の最終版にケルンの労働者への訣別の辞をのせ、イエニーはもちものを質屋に入れ、夫妻はケルンを発った。
 まずカールが、次いでイエニーと二人の子供とがパリに赴いたが、フ
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