多忙な時期であった。パリ時代にその国の歴史から革命の歴史とその発展の理論をわがものとし、先進的なイギリスの経済学を発展的に学びとり、同時に哲学の領域では、大学時代からの研究によってヘーゲルからぬけ出し、やがてフォイエルバッハからも育ち出て唯物弁証法に立つ史観と階級闘争の理論を確立していたカールは、ブルッセルにおいて彼の「書物の海」を出た。そして「労働者教育協会」を創り、国際的なつながりでそれを大きくし、一八四七年のロンドン大会で、パリに出来ていたドイツ亡命者の「義人同盟」と合流して初めて「共産主義者同盟」を創った。この第一回大会の決議によってエンゲルスが二十五の問答体で「共産主義原則」を書く筈になった。けれども、エンゲルスの意見でこの問答体の書きかたが変更され「共産党宣言」として「共産主義者の政策をのべる」ことが決定された。第二回のロンドン大会に出席したマルクスは、共産主義者同盟の名によって「共産党宣言」を起草することを頼まれた。一八四八年の一月末、歴史的な「宣言」はドイツ語で書かれロンドンから発表された。「プロレタリアはその鎖のほか失うべき何ものをも持たぬ。彼等は得るべき世界を有つ。全世界のプロレタリア団結せよ。」宣言の簡潔な力強い文章のなかに、エンゲルスとマルクスとがその時までになしとげた、あらゆる科学的研究の結果が具体化されていた。
 第一回ロンドン大会にマルクスが出席出来なかったのは簡単で絶対な一つの理由によった。旅費の工面が出来なかったのである。この窮乏のうちにイエニーは長男の母となった。(エドガーと名づけられた男の子は八歳で夭折した。)
 ブルッセルで、エンゲルスがマルクス家の隣に住んで共に働くようになった。エンゲルスと共に終生変らぬマルクス夫妻の仲間となったワイデマイヤーとの交際もはじまった。イエニーはすべての友人たちのよい女友であり母であった。
 一八四五年にカールは、ベルギー政府とプロシヤ政府連合の追放政策から自身を守るためにプロシヤの国籍から離脱した。故郷なき一家となった。優しい夫であったカールは、二人の幼な子をもつイエニーとこのことについてもよく話しあったことだろう。カールの仕事の歴史における価値を感じ、一家のゆくてにすべての変転を覚悟しているイエニーは、カールの相談を理解しその処置に賛成しただろう。けれども子供達の将来を思い、いまはもう故郷で
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