した。しかし、それは、ほんの一時のいわば榎の出来心で、フランスの僅か半年の影響が彼の感情から消えると同時に、榎は、もとの謹直一方の、やや退屈な良人に戻った。
 花火の散った後のような心持で、絹子は、日常生活の詰らなさを、一層強く感じているらしかった。
「私のピアノだって、あなたのお姉さまのなすってらっしゃるお心持とは大分違うわ。和子さんなんか [#アキはママ]本当にお好きで、天分もおありんなって、本ものになろうとしていらっしゃるんだからいいけれど、私なんぞ、外にすることがないし、したくったって出来ないから、まあ憂さ晴しみたいなもんなんですものね」
 佳一にそんな打あけ話をするくらいであった。或るとき、姉の和子にそのことを話すと、和子は、
「そうお。……佳一さん、信用があるのね、おめでとう」
 冗談とも本気ともつかず笑っていった。何かぼんやりした微妙なものがあることは佳一も感じてい、榎のいるとき、いないとき、絹子の打ちとけ方に相違のあることをも、彼は心づいているのであった。
「さ、ポチゃの子、見てらっしゃい。楓ちゃん、まだか、まだかってないてたことよ」
 窓際のディヴァンにかけ、佳一は冷たい紅茶のコップをとり上げた。
 絹子は、臙脂《えんじ》色の帯の横を見せ、立ったまま二つ三つピアノで諧音《アッコード》を鳴らした。
「変じゃないこと? このピアノ」
「どうかしたんですか」
「大変なことになっちゃったの」
 絹子は小さい声で、
「贋なんですって、ベッシュタインの」
といった。
「私閉口しているの、実は。これ買うとき、ほら榎、神戸へ行っていたでしょう。電報打ったり何かして買わせたんですもの」
「でも――本当なんですか、誰か鑑定したんですか」
「ついこの間、偶然会社の人が来て、麻布のミセス・フーシェって方のところへおとまりになったんですって。そこに、これと同じのが一台ありましたの。ミセス・フーシェだってベッシュタインだと思い込んで、お見せになったんでしょう。その人から判ったの。そんなことが分ったら、すっかり音まで変になっちゃったようで……」
 二人は笑った。
「榎さんにおっしゃって、じゃ処分した方がいいですね」
「それで閉口なのよ。――あのひと自分が家にいると、ピアノ、まあやかましいって部ですもの、すっかり私、信用を失わなくちゃならないんですもの」
「じゃ、飽きたことにして、どこかへ押しつけるか」
 絹子は、深いえくぼ[#「えくぼ」に傍点]をよせ、黙って笑ったまま短いチャイコフスキーのバラッドを一つひいた。練習のつんだ正確なひきようだが、ニュアンスがない。いつも絹子のひきぶりはそうであった。
 果物などむきながら、彼等はやがて、活動のことを話した。佳一は、
「とても素敵だ、僕、水が出そうんなったところありますよ」
とヴァリエテをほめた。
「通にいわせれば、いろんな苦情があるんだろうけれど、やっぱりよかったな。リア・ド・プティ――女優ね、随分新鮮でよくやっていたし、ヤニングス、僕オセロよりいいと思ったな」
「まあ! そんな? 私オセロは見たのよ」
「そんならなおだ。ヴァリエテ御覧なさるといい」
「さ、どうお一つ、これは本ものらしいから上って頂戴な」
 サンキストと皮に文字を打ってあるオレンジをとり分けながら、絹子は、
「じゃ、お友達でも誘ってぜひ見ましょう」
 弾んだ調子でいったが、
「でも、私共みたいな境遇詰らないわねえ。ちょっとそんなものでも見ましょうってお誘いしたって、直出かけられるような方一人もいらっしゃらないんですもの」
 榎は、ダンスをやめたと同時に、二十七歳の絹子が、稀には良人と活動でも見たい心持を持つことさえ、理解するのを中止してしまったようであった。
 絹子は、剥《む》きかけたオレンジをそのままたべもせず皿に置き、うつむいてフィンガー・ボウルに指先を濡し、いった。
「もう二年ぐらいになるわ、そんなところへ行かなくなってから……いよいよお婆さんになるばかりね、ですもの」
 佳一は、楓の大きい姉ぐらいにしか見えぬ絹子が、自分からよくお婆さんという、いわれる度に、妙な居心地わるい気持になった。彼は、自然に話の調子で、
「お連が面倒なら、僕お伴してもいいですよ」
といった。
「そう? でもお気の毒ですわ、もう御覧なったんですもの」
「平気! それは。ウィンダアミア夫人の扇だって二度見たんですもの」
「そうお?――じゃ御一緒に願おうかしら……早い方がいいわね」
「場所が悪くなりますね、あとだと……」
「夜私あけられないから、昼間でなくちゃ都合わるいんだけれど――あなた、でも本当に御迷惑じゃいらっしゃらないの?」
 絹子にとって、活動見物は一つの冒険であるらしく、俄に活気を帯びた眼の輝きや、さり気なく小声になった相談が、ふと佳一の
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