そして、きわめて純粋な英国式解釈で、一般大英国人の社会奉仕の観念につき、商魂につき強固な社会的訓練および|公平な勝負《フェアープレー》の価値について古物的な東方からの客を啓蒙する。
 ある夕方、日本女がその客間に坐っている。彼女はロンドン表通りに於て他人である自分を感じる。すなわち、英国人の|公平な勝負《フェアープレー》という標語もボート・レースやポローの競技場埒外では、アフガニスタンやパレスタインまで出ると怪しいもんだという懐疑を公然抱いているのだ。彼女は坐っている。
 M氏は、
 ――こないだも、あの有名な醤油の某々の息子がやって来てねえ。
 これは興味ある話題である。
 ――いろいろ話していったが、若い者が相当いろいろ苦しんでるんだな。彼が云うにゃ自分なんか決して人の思うような贅沢な暮しなんかしていないんだ。それでてうまく行かない。何とか考えは無いかと云うんだ。だから僕が云ってやったんだが、本気で何とかする気だったら先ず自分がすっぱだかになって見せないじゃあ駄目だ。組合を認めて、代表を出させて、年に一遍正直な決算報告書《アカウントビル》を見せるんだ。普通の金利七八分の配当を得ようとするのは合理的なんだから労働者だってそれが悪いとは云えやしない。それ以上取ろうとするからやかましいんでこれできかなけりゃあ労働者の方が悪い、すべて、|与え、而して取る《ギブアンドゲット》なんだ。――どうだね、一つやって見たらって云うとね、先生そんなこと受けつけるような相手じゃないんですって云う訳さ。受けつけるも受けつけないにもやって見ないで分りゃしないじゃありませんか! ねえ。
 合理的だと云うこととある人間にとってそれだと好都合だと云うこととは二つの別なことである。日本女はそう思う。が、M氏は自身見て疑わぬ。訓練ある[#「訓練ある」に傍点]英国|労働組合《トレード・ユニオン》はほとんど全線にわたって資本家国家のかくの如き要求を合理的と認め、現に賃銀値下げに協調しているではないか。この合理化を非合理化だと叫んでいるのは、英国人の商魂という特殊性を没却した第三インターナショナルの指令のままに誤った戦法を繰返しつつある小数運動者ばかりではないかと。
 ――君と私とは心理状態が違う。だからたがいに歩み合って協調しようと云うのがイギリス流さ。ところが君と私とは心理状態が違う。だから独裁がいるってのが彼らの考えかただから、妙さ!
 妙な考えかたをするという点においてはイタリーのファッシズムとロシア・プロレタリア独裁が氏にとって全く相ひとしきものである。
「英国人の着実な商魂が実際においてどれだけの働きをしているかと云うことは、炭坑夫安寧協会の仕事を見ても分る。炭坑主が一頓について一ペンスだけ出して独立な大きいビジネスをやってるんだ。」
 しかし、その同じ着実な商魂が考え出した英国炭坑における合理化《ラショナリゼーション》と云うことは、二年前(一九二七年)に比べると十六パーセント減の労働人員によって前年より千三百万頓増大した採掘量を持ち、労働者の賃金は一交代九シリング六ペンスから九シリング一ペンス1/2に落ちて死傷率が高くなったという事を意味する。

 ペンネン通十三番地。労働大学《レーバーカレッジ》の露台の上に大きな「売家《トゥ・ビィ・セールド》」の広告が張り出されていた。内部は空屋同然である。前垂をかけた掃除女が一人廊下を歩いている。階下の戸を開けっ放した室で年とった四角の体の男が時々来て残務整理をやった。
 ――御承知のような現状で坑夫組合はこの学校で三十人前後教育するために年三四千ポンドを負担するに堪えなくなったのです。昨今の形勢では折角それらの人々を教育してもかえって逆な利益の為に利用されることになってしまうので、残念ながら断然閉鎖に決心しました。
 西日が表戸の真鍮板と売家の広告の上に照っている。真鍮板の「労働大学」という字がキラキラ往来に向って光った。

 日曜日である。店はしまっている。閑静な通りを乗合自動車《オムニバス》が展望を楽しみつつガラスを輝やかせつつ数少なく走っている。
 聖ピータア寺院の石だたみでよごれた鳩の群が餌をひろっていた。子供づれの男女が立って紙の中からパン屑をまいてやっている。日曜以外の日ここの大石段は常に大勢の何時になったらそこをどくのか分らないような連中で占領されていた。或る者は石段にかけ、ひろげた膝に肱をつっかって頭を手の中へ埋め込んでた。すっかり扉の下まで登り切ったところでごろりと長く横になってる者もある。大石段は目的のない人間のいろんな姿態《ポーズ》で一杯に重くされ、丹念に暇にあかして薄い紙と厚い紙とがはなればなれになるまで踏みにじられた煙草の吸口などが落ちていた。ボソボソ水気なしでパンをかじった。鳩が飛ん
前へ 次へ
全17ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング