ブ人……1/3―2/1   3/1
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 交通機関の血圧上昇がやや緩和された。フリート町だ。新聞社町である。ジョソン博士が麦酒《ビール》を飲みながら片手に長煙筒を持ってビール盃を出す料理屋がフリート町にある。その半木造《ハーフティムバア》の家で昔ジョンソン自身が現代の新聞社街を支配する資本家を知らずに酔っぱらった。そして気焔を吐いた。
 ハイド公園《パアク》に近いピカデリー通りで貴族の邸宅は年々クラブや自動車陳列店と変形しつつあった。そして、バッキンガム宮殿の鉄柵に沿って今もカーキ色服に白ベルトの衛兵が靴の底をコンクリートに叩きつけつつ自働人形的巡邏を続けているであろう。になった銃の筒口が聖《セント》ジェームス公園の緑を青く照りかえして右! 左! 右! 左!

 オックスフォード広場で、勤帰りを待伏せる春婦が、ショー・ウィンドウのガラス面に自分の顔を、内部にこの商品を眺めつつぶらつき、やがて三十分もするとロンドン市中、あらゆる地下電車ステーションの昇降機《リフト》とエスカレータアは黒い人間の粒々を密集させて廻転する巨大な産卵紙となる。乗合自動車、郊外列車。夕刊。パイプ。あいびき。それから家庭へ! 家庭へ! 下宿へ。下宿へ! 英蘭銀行《バンク・オヴ・イングランド》を中軸とする商業地帯は午後五時以後一時に暗く貧血して夜毎の仮死状態に入る。
 が、諸君!
 ロンドンの勤労者諸君! 諸君はロンドン地下電車に積み込まれて疾走しつつ、頭の上にどんなロンドン市地図が展開しているか果して知っているか? 大都会の植民地|東端《イーストエンド》から英蘭銀行《バンク・オヴ・イングランド》にいたる黒い長い路。それから、新聞街、問屋町、西《ウエスト》バッキンガムに至るまでの活溌な、広い路。そのどこに諸君の町があるか。知っているか? 地表のロンドン市がいるのは労力だけだ。だから地下電車は君らを真空管のように吸い込んでは市の中へ、真空管のように吸い込んでは、滓として市の外へ捨てつつある。ただ手に持つパイプをたたき落されないだけの平安だのに、諸君はさながらロンドンを所有しているかの如く平安なのだ。
 或る日、東端《イーストエンド》から逆三角の顔を持つ老いたる若い時代が隊伍をなしてくり出して来なければならない。そしてロンドン市はいかに彼らの上に組み立てられているか、知らなければ
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