の演出法として、幕切れに出るプラカートは、既に新鮮さを失いかけている。観客席からいきなり役者が飛び出す方法とともに。ロシア人の好きな黒パンがでかい[#「でかい」に傍点]ように、ここでは何でもふんだんだ。プラカートと観客席から飛び出す役者まで、或る場合ノンセンスな程、モスクワの舞台にはうんとある。けれども、標語は反対に、安全デーという標語《ローズング》以外のものを知らぬ東京で想像する以上に社会精神の重大な尖端をなしている。標語《ローズング》はその時の政策の要点を示すばかりではない。例えば、アメリカからの雑誌記者がベルリンに向ってシベリア鉄道に乗った。万国寝台車の中で彼は暇である。銀貨入れを出して小がね勘定をする。ハルビンで米貨を留《ルーブル》に替えた時、彼はどの位損をしたか、得をしたか?――見ると、ロシアの金は五十カペイキの銀貨から一コペックに到るまで、鎌と槌標とを取まいて文字がかいてある。СССР――これは分り易い。英語になおせばUSSRだ。後の文句はプロレタリイという語で始る。彼がもしポケット露語字典一つ持っていれば、彼の財布に鳴るすべての露貨が「全世界のプロレタリイ、団結せよ!」というマルクスの言葉をもって鋳型から出ていることを理解するであろう。シベリア鉄道の食堂の数百の皿も、鎌と槌とこの標語《ローズング》をもっている。モスクワで汽車を待つ数時間ホテルに坐るなら、ホテルのあらゆるインク・スタンドは、ペン台の上に「プロレタリイ・フセフ・ストラン・ソエジニャアイチェシ!」を浮上らしているのを見る。――全露に国営のホテルはいくらあるか。各々のホテルには幾室あるか。つまりこのようなインク・スタンドだけでも何十万箇無ければならないかと考えた時、そして、СССРは僅か十年を革命後経たばかりであるのを考えた時、彼の心に来る印象は軽くない。政権とは、その最小末端に於てさえ、なお新鋳の、その上には好みの標語を書くことのできる数十万のインク・スタンドを意味するということを、彼は明かに我目に観る。――印象は、ベルリンへ着いて自身の恐るべき独逸《ドイツ》語で頭をひっかき廻された後も、彼の精神の上に遺るであろう。
「生産の合理化」「工業化」は目下のСССРにとって、深大な意味をもつ標語である。ロシアは農業の国だ。一人の労働者に対して八人の農民がいる。
 遠大な目的で、白海から黒海を繋ぐ水路としてドニエプル河に発電所と堰堤《ダム》工事を起した。堰堤《ダム》は総延長七六六・七五メートルになるであろう。竣工すれば全СССРの産業能率はいちじるしい増進を見、一年少くとも五百万|頓《トン》の石炭を節約することが出来るであろう。これらすべての有益な出来るであろう[#「出来るであろう」に傍点]を実現する為に必要な幾つかの発電機の支払いは、СССРに於ては間接に輸出された小麦の幾袋かを意味する。小麦を蒔いて、刈って、袋につめるのは農民の仕事だ。鷹揚そうだがプーシュキンさえ見逃さなかったバルダの知慧で|俺のこと《マヨー・ジェーロ》は抜からぬ農民魂で、彼等はどのように経済関係を理解して居るか。
 復活祭前までモスクワ市はバタの欠乏に困難した。ホテルのバタ切が次第に薄くなり、牛乳製品販売所の前から厳寒《モローズ》の中を一町以上も籠を下げた女子供の列が続いた。
 ――どうしてこんなにバタが足りないの?
 ――田舎の牝牛が眠っているから。
 眠っているのは牝牛ではない。牝牛を飼っている農民の手であった。彼等は一キログラム二ルーブリ四十カペイキ位の公定相場で自家製バタを手放すことを欲しなかった。ただし、その払底の間にも、個人が営む売店の棚の下には、大切に紙に包まれたバタがあった。二百グラムで六十カペイキ、又は七十カペイキで売るバタならあったのだ。
 工業化は、ドニエプル河岸に幾箇かのモーターを据えつけようとする。人間の爪は時々きる必要があるものだという日常衛生の知識から始って最高度のイデオロギーまで「文化の革命」へ全СССРは急がなければならない。レーニンも時には南京虫に喰われたであろうというところに、ロシア文化の独特な性質がある。モスクワを中心として、八方へ新文化を放射しようとする。芝居の形で、キノのスクリーンによって、クラブ教育によって、観察の要点を知った者が国立出版所で四十五分費せば、現代СССРがいかに熱心に組織立てて三カペイキ―十五カペイキで「ラジオ組立法」から「何故СССРには二つの党が存在し得ないか」という問題に関する迄の知識を普及させようかと努力して居るかが理解されるであろう。アンリ・バルビュスの新作はフランス語を知らぬ工場のタワーリシチも二十五カペイキの『小説新聞《ロマンガゼータ》』の上でただちに読める。
 今まで文字を持たなかったカフカーズの山奥で、新アル
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