ころが、そのメーデーさえも、日本では僅か十数回行われたばかりでした。一九三一年、昭和六年に、日本の政府が満州へ侵略戦争をはじめると同時に段々メーデーが出来にくくなって、戦争が進行拡大するにつれて、到頭メーデーという行事は昭和十一年に禁止されました。

 日本の政府が、戦争を行って、大衆の生活をやぶり家庭の平和を破壊する程度がひどくなればなるほど、メーデーを禁止したという事実を、みなさま、御婦人がたは、こんにちどうお考えになるでしょう。

 もしメーデーというものが、ただ歌をうたって、旗をたてて町をねり歩くだけのものでしたら、戦争の間、政府がそれを禁止する必要はありませんでした。メーデーに行進する正直な数十万の働く男女は、侵略戦争が日本の人民の幸福を根こそぎうちこわすものであるということを知っていて戦争に反対していました。自分たちばかりでなく、中国や満州の働く人民も、生産を破壊し、殺し殺される無惨な戦争をちっともしたがっていないのだということを知っていて、反対したから、メーデーの行進は禁じられて来たのです。

 いま、こうしてラジオをきいていらっしゃる日本じゅうの家庭婦人のうちに、何十万
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