結構さん」の中に「旦那」「他人」を嗅ぎわけて、本能的に仲間はずれに扱ったということ。それらが、幼いゴーリキイの知性の目覚まされてゆく生活の過程として、私共の心を打つのである。
更にこの「結構さん」とのことで、はからずゴーリキイの全生涯の方向を暗示するまことに面白いエピソードが「幼年時代」に語られている。
或る日、「結構さん」の部屋で、「結構さん」は煙の立つ液体をいじって部屋中えがらっぽい匂いで一杯にしている。ゴーリキイはボロのしまってある箱の上に腰かけている。そして、二人は話している。
「お祖父さんは、お前はもしかしたら贋金を拵えてるんだって云ってるよ」
「お祖父さんが?……うむ、そう。――それはあの人がいい加減をいっているんだ! 金銭なんぞというものは、兄弟――下らんものさ」
「じゃ何でパンの代払う?」
「うむ、そうだね――パンの代は払わなくちゃならない。まったくだ……」
「そうだろう? 牛肉代だっておんなじさ」
「牛肉代だってか……」
彼は静かに、驚嘆するほど可愛く笑い、まるで猫にするように私の耳を擽って云う。
「どうしても僕はお前と口論は出来ない――お前は私を参らせるよ、兄弟。それよりも、さあ、黙ってよう……」
読んでここへ来ると、私たちは思わず身じろぎをして快い笑いに誘われながら、ああ、ゴーリキイ! と思わずにはいられない。この短い、小さい逞しい人生についての問答は、私たちに後年チェホフが云った一つの言葉を思い起させる。二十四歳で、ロマンティックな作家として世に出たゴーリキイに向って、チェホフが「知っていますか? 君はロマンティストじゃない、リアリストですよ。知っていますか?」と云った。そのことを思い起させる。更にそれから後、「哲学の害」を書いたゴーリキイ自身を、そして、その晩年に於て、新しい人類的見地に立つリアリズムの理解によって六十八年の全蘊蓄の価値を傾けて民衆の歓びとなったマクシム・ゴーリキイの終曲《フィナレ》の美しさに思い到らせるのである。
「結構さん」と、泣くことのきらいな小さいゴーリキイとの間に交わされたこの問答の中からは、ゴーリキイを通して民衆的なものの見かたの本質と、旧時代のインテリゲンツィアの特性の一面とが、鋭い対立を示して現れている。この注目すべき性質の対立は、ゴーリキイが十五歳になり、カザン市へ出かけて当時の急進的学生たちとの交渉が始まるにつれ、一層その社会性、歴史性に於て複雑な内容をもって深められ、発展するに至ったのである。
十五歳でもゴーリキイは既に自分を年よりだと感じる程重く生活からの雑多な印象に満たされていた。
学校で受けた教育と呼ぶことの出来るのはマクシム・ゴーリキイの全生涯を通じて小学校の五ヵ月のみである。祖父は急速度に零落し、七歳の彼も「銭」を稼がなければならなくなった。彼は屑拾いをした。オカ河岸の材木置場から板切や薪をかっぱらった。「盗みということは場末町では決して罪悪とされていなかった。それは習慣であり、又半ば飢えている町人にとっての殆ど唯一の生活方法なのであった。」
靴屋の見習小僧。製図師の台所小僧兼見習。辛棒のならないそれ等の場所の息苦しさから逃げ出して、少年ゴーリキイはヴォルガ河通いの汽船の皿洗い小僧となった。到るところで彼は「ぼんやりする程激しく労働した。」そして、彼の敏感な感受性と自分の生活、人々の生活を熟考せずにはおけない気質とは、人々の中にあって益々多くの疑問にぶつかった。
例えば、汽船の皿洗い小僧として、十三歳のゴーリキイは朝から晩まで皿を洗う。鉢を洗う。ナイフを磨き、フォークと匙を光らせていなければならない。だが、一方には、そうやって洗った皿を一つ一つまたよごし、鉢を使い、ナイフや匙をきたなくしてゆく人々がいる。それらの人々は全く平気に、全く当然なこととしてやっているのだが、何故これは当然なのだろう? 朝は六時から夜半まで働いているゴーリキイの少年の心には疑問が湧いて来る。何故、一方に何でもしなければならない人々があり、もう一方にはそれらの人々に何でもさせた結果を利用することの出来る人々が存在するのであろう。彼の周囲の生活の中には、泥酔や喧嘩や醜行やが終りのない堂々めぐりで日夜くりかえされているのだが、それらすべては何のために在るのだろう。
当時、ゴーリキイは、汽船の料理番スムールイに読むことをおそわった。初めはマカロニ箱にこしかけて、『ホーマー教訓集』『毒虫、南京虫とその駆除法、附・之が携帯者の扱い方』などという本を音読させられた。が、だんだん『アイ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]ンホー』を読み、『捨児トム・ジョーンズの物語』を読み、「知らず知らずの間に読みなれて」彼にとっては「本を手にするのが楽しみになった。本に物語られていることは、気持よい程生活とかけ離れていた。そして、生活の方は益々辛くなって行った。」スムールイは、どこか普通の子とちがうゴーリキイを愛し、時々無駄に過ぎてゆく自分の一生に腹を立てたように怒鳴った。
「そうだ、お前にゃ智慧があるんだ、こんなところは出て暮せ!」
然し――何処へ?
愈々深く大きくなる「何故」という疑問、社会の矛盾に対する苦悩が、ついにマクシム・ゴーリキイを古いニージュニの場末町から押し出した。ゴーリキイは、カザンへ出た。彼はカザンで大学へ入ろうと決心したのであった。ニージュニで知り合った彼より四つ年上の中学生が美しい長髪をふりながら彼のその計画を励ました。
「君は生れつき科学に奉仕するために作られているんだ。――大学はまさに君のような若者を必要としているのだ。」
ところが、カザンに到着して三日経つと、ゴーリキイは、自分が大学なんぞへ来るよりはペルシャへでも行った方が、もう少しは気が利いていただろうということを知った。彼独特な「私の大学」時代がはじまった。ゴーリキイは、その時代のことをこう書いている。「飢えないために、私はヴォルガへ、波止場へと出かけて行った。そこで一五、二〇カペイキ稼ぐことは容易であった。」と。
これらの波止場人足や浮浪人、泥棒、けいず買い等の仲間の生活は、これまで若いゴーリキイがこき使われて来た小商人、下級勤人などのこせついた町人根性の日暮しとまるでちがった刻み目の深さ、荒々しさの気分をもってゴーリキイを魅した。彼等が、極端な無一物でありながら、貧と悲しみの境遇の中で自分たちの何にも拘束されない生きかたを愛していること、この人生に対して露骨な辛辣さを抱いていること、それらがゴーリキイの好奇心と同情をひき起したのであった。ゴーリキイは、この群のうちにあって「日毎に多くの鋭い、焼くような印象に満たされ」「彼等の辛辣な環境に沈潜して見ようという希望を呼び醒され」た。けれども、屑拾い小僧であり、板片のかっぱらいであった小さいゴーリキイを、かっぱらいの徒党のうちへつなぎきりにしなかった彼の天質の健全な力が、この場合にも一つの新しい疑問の形をとってその働きを現わした。これらの連中は、いつ、何を話してもとどのつまりは「何々であった[#「あった」に傍点]」「こうだった[#「だった」に傍点]」「ああだった[#「だった」に傍点]」と万事を過去の言葉でだけ話す、その事実にゴーリキイの観察と疑惑がひきつけられた。この彼等の意味深い特性の発見は次第にゴーリキイの心に或る恐怖を感じさせた。ゴーリキイの若い精神は、社会の汚辱と矛盾に苦しめば苦しむ程激しくよりよい人生の可能を求めた。彼は未来を、これからを、よりましな「何ものかであろう[#「あろう」に傍点]」ところの明日から目を逸すことが出来ない。ゴーリキイは彼等のように生きてしまった人々の一人ではなかった。ゴーリキイは生きつつある者、しかも熱烈に生きんとしているものの一人なのである。「このことが、彼等から私を去らしめた。」マクシム・ゴーリキイは、その自伝的な作品「私の大学」の中で活々と当時を回想している。「私は外部からの助力を待たず、幸福な機会というものにも望みをかけなかった。が、私の中には次第に意志的な執拗さが発達し、生活の条件が困難になればなる程、それだけ堅固な賢くさえある自分を感じた。私は非常に早くから人間を作るものは周囲の環境への抵抗であるということを理解した」のであった、と。
こういう心で、ゴーリキイはカザン市の貧民窟「マルソフカ」の一部屋に、大学生プレットニョフと生活しているのであった。彼の全心に「ぼんやりとした、しかし、これまで見たすべてよりももっと意義のある何物かへの欲求」を抱きつつ。
ゴーリキイとプレットニョフとは、「どん底」の一室にたった一つの寝台をもって暮していた。ゴーリキイはそこへ夜眠った。プレットニョフは、交代に昼間。貧しいこの大学生はカザンの新聞社へ夜間校正係として働き、一晩十一カペイキずつ稼いで来た。ゴーリキイに稼ぎがなかった日は、この心を痛ましめる睦しい同居者たちは四片のパンと二カペイキの茶、三カペイキの砂糖だけで一日を凌ぐことも珍しくない。ゴーリキイは波止場稼ぎをしばしばやすんだ。プレットニョフのすすめで科学にとり組む仕事をはじめた。小学教師の試験をうけるようにというのであった。
独習者の新鮮、真面目な努力で、どんなに若いゴーリキイが、この科学の克服に熱中したかということは想像される。そして、このむずかしい仕事の中でも手に負えないのが、ゴーリキイにとっては文法であったというのは面白い。彼は、幾分極りわるげに、しかし或る誇りを潜めて書いている。「私はその中に、生きた、困難な、気儘で柔軟なロシア語をどうしてもはめこむことが出来なかった。」この科学[#「科学」に傍点]との取組みは案外早く終りを告げた。小学教師の試験を受けるにゴーリキイはまだ若すぎることがわかったのであった。
ところで、この朝、この「過ぎ去った人々や未来の人々の騒々しい植民地」の一隅に変ったことが起った。そこの住人であった一人の廃兵と労働者とが憲兵に引っぱられた。プレットニョフはこのことを知ると、興奮してゴーリキイに叫んだ。
「おい! マキシム、畜生! 走ってけ、兄弟、早く!」
ゴーリキイは、合図の言葉を知らされて、「燕のように迅く」或る場末町へ走って行った。そこは小さな銅器工の仕事場であった。そこには異様に青い眼をもった縮毛の男がいた。ゴーリキイは、社会の下積の者の炯眼で、一目でこれが真実の労働者ではないことを観破したのであった。
この端緒から、当時のカザンに於ける急進的な学生、インテリゲンツィアとゴーリキイとの接触がはじまった。ゴーリキイは、墓場の濃い灌木の茂みの中でもたれる彼等の集りにいった。すると、彼等は波止場稼ぎの若者であるゴーリキイが「何を読んだかということを厳重に問いただした上で」彼等の研究会でゴーリキイも勉強するように決定した。そこでは、チェルヌイシェフスキイの註解附のアダム・スミスの書物を研究するのであった。アダム・スミスの読解は、ゴーリキイをひきつけなかった。
「よその小父さん」の幸福と安逸とのために自分のすべてを消耗しているものにとっては実に明らかな事実について、むずかしい言葉でこんな大きい本を書く必要はなかったという風に、ゴーリキイには考えられた。スミスが提出する経済学の命題は、生活から直接獲得されたものとしてほかならぬ彼自身の皮膚の上に書かれている。――
然しながら、マクシム・ゴーリキイはその退屈をこらえ、「絶大な緊張をもって、草鞋虫の這っている窖の壁を見つめ、坐りつづける。」彼の内心に疼いている数限りのない「何故?」がそこから彼を去りかねさせるのであった。マクシムは、抑え難い感動をもってゲルツェン、ダーヴィン、ガリバルジなどの肖像を眺めた。そして、息苦しい室内に集って真理を擁護しながら議論をわき立たせるこれら一団の人々が、よりよい人間の生活の招来のために献身していること、彼等の言葉の中には彼の無言の思いも響いていることを感じ、自由を約束された囚人のような狂喜でこれらの人々に対したのであった。同時に、かつ
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