る日のことであった。主人やサーシャが店の裏の小室にいて、店に番頭が一人女客を対手にしていた時、番頭は赫ら顔のその女客の足にさわって、それを摘むように接吻した。
「マア……」溜息をついて「何て人でしょう!」
「そ、その……」
 そっと腕を掻きながらその光景を眺めていた小僧ゴーリキイは、思わずふき出して、笑いすぎ、足許がふらついて扉のガラスを一枚こわしてしまった。番頭が怪しからん小僧を足蹴にした。主人は重い金の指環で頭を殴りつけた。サーシャは厳しく云うのであった。
「何もおかしいことなんかないじゃないか! 女ってものはな、靴なんかいらなくったって、好きな番頭の顔さえ見れば、欲しくないものまで買うんだ。それをお前は――何だい、分りもしない癖して!」
 ゴーリキイの心を更に苦しめ、腹立たしくするのは、女客に対する店じゅうの者の恥知らずな蔭日向であった。黒毛皮の外套の素晴らしい美しい女が店へ入って来る。主人、番頭、サーシャ「三人が三人とも、鬼の子みたいに店を駆け廻り」あたりのものが燃え出したかと思うような亢奮の後、高価な靴を何足か選び出してその女客が店を出るや否や、主人は舌打ち一つして、
「チェッ! 畜生!……」
と掠れ声を出す。
「マア、女優ってところですな」
 蔑んだ調子で番頭が合槌を打つ。そして、散々いかがわしい話をする。
 小僧ゴーリキイは「そんな時には、店から駈け出して行って、婦人客に追い縋り、彼等についての陰口をぶちまけてやりたい心持に駆り立てられる」のであった。
 三人の者が、心に激しい猜みを抱いて暮していて誰のことでも、何か悪いところしか拾い出さないのが、彼に嫌悪を催させた。一日中暇のない程忙しいのだが、ゴーリキイの心は重く、馴染深いオカ川の河岸や、お祖母さんが懐しく、一緒に屑を拾った仲間のチュールカそのほかの徒党に会いたい。
 ゴーリキイはお払箱になるために、何か計画を立てたいと思うようになった。主人の時計の機械に酢をさした。これは、主人を狼狽させたが追い出される役には立たず、全く予想外のことからゴーリキイの若い希望は達せられる羽目になった。或る午飯の時、石油コンロの上でスープを煮ていた鍋をひっくり返して両手に大火傷をした。これで病院に入れられ、家へかえされたが、火傷の原因は、小僧ゴーリキイが、どうしてもその晩、靴屋を逃げ出そうと考え耽っていて、ついぼんやりしてしまったからであり、彼をそんな思いつめた心にしたのはサーシャの死んだ雀の祭壇と、ピンの植えられた靴とであった。その数日前の或る夕方靴屋の主人のところに働いていた病身の料理女が、サモワールを持ち上げようとして跼んだ拍子にのめったまま、全く突然死んでしまった。目の前でこれを見たサーシャとゴーリキイとは深い恐怖に打たれた。警官が来て、少し歩き廻って、心づけを貰うと出て行った。暫くすると、今度は荷車人夫と一緒にやって来て、料理女の足の方と頭の方に手をかけ、往来へ運び出して行った。
「ペシコフ、床を拭いて置きなよ!」
 主人が命令した。
「夕方死んでくれて、まあ助かった……」
 どうして夕方死んだからいいのか。小僧ゴーリキイには分らない。
 夜、台所の隅で寝る時になると、サーシャがこれまでになく優しい調子で、
「ランプは消さないんだよ」
と云った。
「こわいのかい?」
 サーシャは黙っている。やがて蒲団の中から頭を出して云った。
「煖炉の上へ行って並んで寝ようじゃないか」
「煖炉の上は熱いよ」
 夜は静かな夜で、何だか夜そのものがきき耳を立てて何かを待っているようだ。
 サーシャがやがて又云った。
「眠れないや」
「俺も、眠れない」
 二人はいろいろ死人について云われている話をした。あたりは次第に寂しく、暗くなって来た。するとサーシャがいきなり、
「おい、僕の鞄を見せてやろうか」
と云い出した。小僧ゴーリキイは、疾《と》うからサーシャの鞄には好奇心を動かされていた。番頭とサーシャとが時々しめし合わせて、店のものをちょろまかした。そのことをゴーリキイは見ているのであった。
 サーシャは勿体ぶって寝台の上に坐ったまま、ゴーリキイにその鞄をもって来させ、十字架と一緒に胸に下げている鍵で鞄をあけた。錠をあけ「熱いものか何かみたいに鞄の蓋を吹いて」中から下着をとり出した。鞄の中ほどまで色様々な茶の錫紙のレッテル、靴墨、鰯の空罐などがぎっしり詰っていた。
「何があるの?」
「今わかるよ……」
 サーシャは鞄を両足で抱え、その上へかがみかかって祈祷をとなえた。「天の王様……」
 今に玩具が現れるだろうと、ゴーリキイは思った。ゴーリキイは写真をとられたことがないと同時に、玩具というものは持ったことがなかった。玩具なんか軽蔑していたが、それは表向きで、玩具をもっているものを見ればやっぱり羨
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