ように生活することを学べってね」
ロマーシの蔵書には科学的なものが多かった。彼はチェルニゴフの鍛冶屋の息子であった。キエフ駅の油差しとして労働しているうちに運動に入り、労働者の研究会を組織した。捕縛されて二年の牢獄生活の後、シベリアのヤクーツクに流刑された。十年間そこに暮した。革命的学生として同じ頃流刑されていたコロレンコを知っていた。
苦しい動揺の後、自分にとって余り誇りとならない事件の後のゴーリキイにとって、このロマーシの着実な、人間的な処理ぶりは非常にためになった。「それは私を真直にした」と、ゴーリキイは顧みて書いている。「忘れ得ない日々であった。」
日曜日に、礼拝の後ロマーシとゴーリキイとは店をあけた。店の入口に百姓が集りはじめた。往来を晴着を着た娘達が通り、釣竿をかついだ子供が走り、がっしりとした百姓たちが、店の連中、そこにかたまっている群を斜に見、黙って縁なし帽やフェルト帽をあげながら通って行った。その夕方、ロマーシはどこかへか出て行った。小屋に独りいたゴーリキイは、十一時頃、不意に往還で射撃の音をきいた。どこか、近くで発射されたのであった。雨が降り出していた。闇へとび出して見ると、ロマーシが、大きく、黒く、急がず水の流れをよけて、門の方へ歩いて来るのを見た。誰か、棒材を持った奴がロマーシを襲った。
「どけ、撃つぞ、と云ったがきかないんだ。で、俺は空へ向けて撃ってやった。――空にゃ傷がつかないからな」
ゴーリキイは非常によく生活しはじめた。規則正しい読書。一日一日が新しい重要なものを齎した。ヴォルガの漁師イゾートの快い、感動的な素朴さは、ゴーリキイの心を動かした。イゾートは孤児で、土地を持たない百姓で、漁師の仕事でも孤立していた。イゾートは百姓について云った。
「奴等が親切だなんて思わねえがいいよ、ありゃ、ごまかしの狡い人間共だ。――農民は、群れで仲よく生活しなけりゃならねえ。そうすりゃ力になる! ところが金のある奴等は村を割っちまいやがる。全く! 自分で自分の敵になるんだ」
美しい、貧しいヴォルガの漁夫イゾートのこれらの言葉は、鋭く当時のロシアの農村の現実につき入っている。ナロードニキ出のロマーシは、他の農村派の人々よりは、現実的に農民を理解していたであろう。彼は、農奴解放が行われて僅か三十年しか経たないロシア農民には、まだ自由とは何かということを理解するには困難であること。農民は政治上の自治権を獲得しなければならないこと。自分達の組合をもたねばならないこと。それ等をよく理解していたらしい。けれども当時ロシア関税政策の結果として起った農村の窮乏。地代の騰貴。七分、八分五厘という高利の「農民銀行」を利用する富農の強化などによって、驚くべき勢で農村の階級的分裂が促進されつつあった。ロシアには一千万の労働者と、その二倍の貧農が発生しつつあった。ロマーシとゴーリキイのまわりに親密な感情をもって集ったのは、クラスノヴィードヴォの村での、そういう貧農たちと、進歩的な、中農なのであった。
村での実際の生活とその観察とは、ゴーリキイにナロードニキ達によって知らされていた大ざっぱで、理想化された農民というものの考えかたに変化を与えた。農村では、都会よりもずっと健康に、誠実をもって人々が生きていると聞かされ、又多くの本はそう書いている。然しその生活の裡に入ってみると、ゴーリキイに「農民の生活はそんな単純なものには見えな」かった。「それは土地に対する緊張した注意と人々に対する多くの敏感な狡猾さを要求している。そしてこの理性の貧しい生活は誠実ではない。村のすべての人々がまるで盲人のように触感で生活し、皆が何物かを恐れ、互に信ぜず、何か狼のようなものが彼等の中にある。」ゴーリキイにとっては「理性的に生活しようと欲する人々を何故あれ程執拗に愛さないのかを、理解するのが困難であった。」労働者と全く違う農民の気質、農村に対する都会の知的、文化的優越をゴーリキイはまざまざと感得した。田舎はゴーリキイの「気に入らない」のであった。
ヴォルガの村々へ、林檎の花とともに咽ぶような春の季節がやって来た。月の夜、軽い風に蝶のような花は揺れ、微かに音をたて、そして村全体が金を帯びた碧色の重々しい波に揺れているように見える。休みの日の夕暮、娘達や若い女達は雛鳥のように口を開けて歌をうたいながら、村の往還を行った。微かに酔っているような笑いを笑う。村の女たちにいつも愛されているイゾートもまたまるで酔っているように微笑する。彼は痩せ、一層厳しく、美しく、神々しくなった。
或る休み日の朝、ロマーシの小屋の煖炉用薪に火薬をつめこんだ者があり、それが爆発して、あやうく下女を殺しかけた。窓ガラスが皆こわれた。通りを子供らが叫んで馳けまわった。
「ホホール(
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