ている。レーニンが指導するボルシェヴィキと修正派ボグダーノフとがマルクス主義哲学について大論争を行っていた当時、プロレタリアの世界観をわがものにしていない「マルクス主義者に近いもの」であったゴーリキイははなはだしく動揺して、ボグダーノフと雑誌を出したり、ボグダーノフに利用されるような労働者学校を組織したりして、一時レーニンの社会民主労働党から脱落しかけた。その時、フランス、イギリス、ドイツ、ロシアのブルジョア新聞は手を拍ってよろこび、レーニンはゴーリキイを除名したと宣伝した。ゴーリキイ自身これに対して闘い、レーニンはその時党機関紙『プロレタリア』に特別な論文を書いた。「同志ゴーリキイは、彼の偉大な芸術的制作によって、かかるやからに軽蔑を以てして以外には答え得ないほど強力にロシアならびに全世界の労働者運動と結びついているのである」と。
さて、マクシム・ゴーリキイ、本名アレクセイ・マクシモヴィッチ・ペシコフは、一八六八年三月二十八日、中部ロシアのニージュニ・ノヴゴロド市で生れた。父親はある将校の息子であったが、十七歳になるまでに五度も家出をくわだてた。父親である将校は部下を虐待したかどでシベリアに移されたという男である。ニージュニへは十六歳で来た。二十歳の時は一人前の家具師で、その仕事場が祖父の家とならんでいる。
ある日、祖母さんのアクリーナが娘のワルワーラと庭へ出て木苺をあつめていると、やすやすと隣から塀をのり越えてたくましい立派なマクシムが、髪を皮紐でしばった仕事姿のまま庭へはいって来た。
「どうしたね、若い衆、道でもねえところから来てよ!」
祖母さんのアクリーナがきくと、マクシムはひざまずいて云った。「俺達は結婚したいんだ。」りんごの樹のかげにかくれて、ワルワーラはのいちごのように体じゅうを真赤にして、何か合図して、眼に涙を一杯ためている。「あたし達はもうとうに結婚しました。あたし達は只婚礼をしなくちゃならないの」――。
ゴーリキイが生れた後まで祖父さんは二人の自由結婚を許さなかった。ニージュニの職人組合の長老をやり、染物工場をもったりしていた祖父は、自分の娘が一文なしの渡り者の指物師などと一緒になることを辛棒できなかったのである。
五つの時父はコレラで死に、幼いゴーリキイは母と一緒にニージュニへかえって祖父の家で暮すようになったが、この鋭い刺のある緑
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