マクシム・ゴーリキイによって描かれた婦人
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)女子《おなご》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)いたずら[#「いたずら」に傍点]とは何のことであるか
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 人間と人間との遭遇の中には、それを時間的に考えて見るとごく短い間の出来事であり、その間にとり交された言葉や眼ざしなどが僅かなものであっても、ある人の生涯にとって非常に意味の深い結果や教訓をもたらすことがある。私が、マクシム・ゴーリキイに一度会ったということは、その当時には却って理解していなかった彼の芸術的生涯を理解するための生々とした鍵となっていることが、ゴーリキイの亡くなった今日はっきり感じられる。
 既に知られている通り、ゴーリキイは一九二三年にレーニンにすすめられて、イタリーへ持病の肺療法に行った。その時分ゴーリキイは回想の中にも書いている通り、当時のソヴェト同盟の政策に全部的な同感を持つことが出来ず、急進的なインテリゲンツィアを中心とする『新生活』という雑誌を編輯してレーニンに対するブルジョア世界のデマゴギーに対して闘いつつも、一方彼の政策に対して必ずしも一致はしていない自身の見解をも披瀝していたから、このイタリー行はさまざまの風評を生んだ。レーニンはそれらの悪意から発せられる風評に対して、ロシアの大衆とゴーリキイとの正当な関係を明らかに声明した。
 それから五年目で一九二八年、ゴーリキイが再びソヴェト同盟に帰って来るというのである。いろいろの点からこの出来事は世界の視聴を集めた。ソヴェト同盟の大衆は、イタリーにいた五年の間にゴーリキイが、故国で行われている新しい建設に対して絶間ない注意を払い、その文筆活動を通してソヴェト同盟の建設の意味を世界に向って語っていたことを知ってはいる。しかし、彼等が必死の努力で日々を過した五年、その五年をゴーリキイはイタリーにいたということは、イタリーという土地が伝統的にわれわれの心に反映させる一種の遊園地めいた先入感の関係もあって、何だかゴーリキイに対して、うちのものではあるが久しく会わない中に、この新しく変ったうちを、帰って来てどう見るであろうかというような気分が一般にある期待と好奇心とを呼び起した。
 この期待と好奇心とは、資本主義国の古い感情にも違った内容をとって現れた。ゴーリキイは偉大な芸術家である、レーニンをも恐れなかった、だからレーニンは正直なゴーリキイの声を恐れてイタリーへやったのであった。そう考えている彼等は、今度ゴーリキイがソヴェトへ帰って何を見るか、そして何を云うか、終局に自分自身をどう処置するか、ということを貪慾な目つきで見守っていた。彼等が見出そうと欲したのは五年目に見るソヴェトに対するゴーリキイの失望と、偉大な声楽家シャリアピンが金の儲からぬロシアを捨てて、しかも古いロシアの嘆きの唱を歌いつつ稼いでいるように、ソヴェトを見限るであろうということであった。
 一方ソヴェト同盟ではゴーリキイが帰って来ることが決定すると同時に、最も広汎な規模でその歓迎の準備を始めた。ゴーリキイに関する特別な展覧会が各地で行われた。労働者クラブの「赤い隅」や、文学サークルが特にゴーリキイに関する夕をもったばかりでなく、人民文化委員会芸術部、コム・アカデミイの芸術部、国立出版所、作家団等が協力してゴーリキイ展を開いた。ゴーリキイの当時までの全著作、原稿、様々の写真等が陳列され、興味の深い統計表も出品された。それはロシアの大衆がどういう作家を一番愛読しているかということについて統計をとったものであった。古典作家ではトルストイが第一であった。現代作家としてはゴーリキイが第一を占め、外国作家ではジャック・ロンドンが最も多く読まれていることが示されていた。そのゴーリキイの作品の中でも「母」が第一位を占めていたのは意味深い印象を与えた。「母」は知られている通り、ロシアの民衆の歴史にとって忘れることの出来ない一九〇五年に書き始められたものであって、この作品に於てゴーリキイは始めて、確固とした階級性を自身の作品に導き入れた。そしてその後に続いた苦しい反動時代を通して民衆に刺戟と鼓舞を与えた。作品としていろいろ批判さるべき点もあるが、ゴーリキイがその時代に「母」をロシアの大衆に贈ったということは、全く、レーニンが簡単で含蓄のあるほめ言葉を与えた通り「時宜に適った」功績であった。
 その作品がおよそ二十年後の当時にあってもなお一番青年に愛されているということは私の心を動かした。面白いことにこの「母」を、プレハーノフが大変悪く批評したことである。プレハーノフはこの作品が発表された当時、既にメンセビキの頭領としてはっきりレーニンの党と対立していた。プレハーノフにとっては、これまでになく明らかな輪廓をもって自分に対立する大衆の姿を、ゴーリキイが描き出したことによって「母」を憎んだのであった。この作品によってゴーリキイが起訴された。そのことをレーニンに話したら「始めは眉をひそめたが、すぐに頭をふって、目を閉じて、いかにも特別意味あり気な笑い声をあげた。その笑い声が隣の部屋にいた労働者達をよびよせた」とゴーリキイは後年書いている。
 更にこの展覧会で私の目をひいたことは、ゴーリキイの幼年時代の写真というものが一枚もないことであった。五つの時の可愛いまき毛のレーニンの写真は、今日ソヴェト同盟の到る所の幼稚園にかかっている。だが、ゴーリキイの子供の時の写真は一枚もない。ゴーリキイは指物師であった父親に五歳の時死別れた。それから後、母と共に引き取られた祖父の家でどんなに非人間的な生活を送ったかということは「幼年時代」に残るところなく描かれている。引続いて「人々の中」、「主人」、「私の大学」等に描かれている二十歳前後までの若いゴーリキイの生活環境の中で――ヴォルガ通いの蒸汽船の皿洗い小僧、製図見習小僧、波止場人足、そして一種の浮浪者であったゴーリキイに写真を撮ってやろうという程彼を愛する者はおそらく一人もなかったであろう。彼の光りの根源のような影響をもっていた祖母は、その時分もう零落して若い時分のような乞食の生活をやっていた。写真という文化の一つの形も流れ込んでいない社会層の中に生長したゴーリキイを強く感じたのであった。
 これらの展覧会その他に刺戟を受けたばかりでなく、ゴーリキイにだけは会いたい心持がした。尊敬すべき作家、そしてその作品を愛読している作家としてはロマン・ローランがある。けれどもこの人とゴーリキイとの間には本能的に区別が感じられた。ロマン・ローランは、どこか、会う人間を窮屈にさせるところが直感される。よい意味にでも、或る窮屈さを予想される。けれどもゴーリキイは、人を自然にくつろがせそして真実にさせる力を天性そなえているように思われ、一九二八年の初夏レーニングラードで同じヨーロッパ・ホテルに泊り合わせた時、私は一度このたのもしげな芸術の先輩の風貌に接したいと思った。
 晴れた穏やかな朝であった。案内された室は空で、大きな窓から朝日がさし込んでいる。テーブルがあって、上に冷えたトーストが一片皿にのって置かれている。誰か私より前に訪ねて来た者と話しながら食べた残りであろうか。ゴーリキイのように全大衆から歓迎をされている客の前からも、一片の白パンのトーストの残りをそこに残していることは如何にもその頃の生活の気分を現している。すぐ隣りの部屋に通じるドアが開いてゴーリキイが息子と連れだって出て来た。実に背が高い。広い肩幅である。薄ねずみの柔かいシャツを着て同じような色の上衣を軽く着ている。彼は大きいさっぱりと温い手で私の手をとり、そこの椅子にかけさせた。写真で馴じみの深い髯、灰色がかって大変に集中的な表情をもった眼、額の二本の横皺、それらは少し、しわがれたような、しかし充分抑揚のある深い声と共に今私の前にある。私はゴーリキイの総体を、日向でかすかに香ばしい匂いを放っている年老いた樅の木のようだと感じた。
 私たちは少しずつソヴェト文壇の話や、日本の文学のこと、ピリニャークの書いた日本印象記についての不満足な感想等を下手なロシア語で話した。ゴーリキイは真面目な注意を傾けて云うことを聞き、フム、フムといい、短く分りやすい云い廻しで自分の意見を示したりした。日本の話のついでに、ゴーリキイは、日本の婦人が出版権を持っているかということを聞いた。私は持っていると答え、何故それを訊いたかと聞き返したら、ゴーリキイは、ムソリーニはイタリーの婦人に出版の自由を与えていない。若し女の人が本を出したければ父親なり夫なり、法律上の保護者の許可がなければならないことになっていると話した。そして「彼女らは、そんな生活をしている」と、三言で結んだ。話しているとそういう短い、全く民衆的な言葉をゴーリキイが非常にたくみに、表情的に使うのに驚ろかされた。例えば、ピリニャークをどう思うかと私がたずねた時、ゴーリキイは一寸肩をそびやかすようにしてたった二言、「ふうむ。あれか。」という意味のことを云った。その二言三言が無限の含蓄をもって対象を射通しているように感じられ、私はロシア語の表現力と、それを非常に生粋に生かして使うゴーリキイの、作家としての特質を今日も鮮やかに印象されている。私がゴーリキイと会ったのはその時一ぺんであった。ゴーリキイは間もなくイタリーへ戻り、一九三二年に再びソヴェトへ帰った時には彼は全くロシアで生涯を終る決心をもって帰り、世界的に祝われた文学生活四十年の祝祭を機会にゴーリキイは六十四歳の老齢にも拘らず、その精神力に於て最も若々しい新世界建設者の一人として自身を世界に示したことは、よろこばしくわれわれの記憶に刻まれている。一九二八年の秋、私はモスクワからヴォルガ河を下って南ロシアへ旅行した。夏ゴーリキイに会っているので、彼の生れ、そして育ったニージュニ・ノヴゴロドの街や、ヴォルガと流れ合っているオカ河の長い木橋、その時分でもまだアンペラ草鞋を履いて群れている船人足の姿、波止場近くの小さい教会が、丸い赤い屋根をそのまま魚市場に使われていて、重々しく肩幅の広いヴォルガの労働者が下手なペンキの字で「サカナ」と書いた板を打ちつけた教会の入口を出入りする光景を、如何にもソヴェト的な一つの絵画として私は見た。このニージュニの街は、今日、ゴーリキイ市と呼ばれている。そしてちょうど私の行った時最終日であった有名なニージュニの定期市――ゴーリキイが十代の時分この定期市の芝居で馬の脚をやったということのある定期市も、その一九二八年が最後で閉鎖された。ペルシャやカスピ海沿岸との通商関係は進歩して古風な酔どれだらけの定期市の必要がなくなったのである。ニージュニが、その後すぐ始まった第一次五ヵ年計画によってソヴェト第一の自動車製作所を持つようになったことを知った時、私は、ゴーリキイがどんなに今昔の感に打たれたであろうかと思った。

 ピリニャークのような作家は、日本へ来て芸者を見て、日本の社会における芸者というもののおかれているさまざまの経済的・社会的桎梏を一つも洞察しなかった。芸者というものを、全婦人があこがれている文化の美しい化身であるかのように書いた。こういう婦人の観かたと、ゴーリキイが、私に日本の婦人は出版の自由をもっているかと聞いたそういう具体的な、そして健康な着眼との相違が当時も深く心に刻まれたのであった。その後ある必要からゴーリキイの自伝的な作品を読み、ゴーリキイが婦人というものに対して抱いている態度をトルストイやチェホフのそれとくらべて独特な社会的価値を含んでいることを感じている。度々述べられている通り、ゴーリキイの幼年・少年・青年時代は恐ろしい汚辱との闘争に過ぎた。ゴーリキイの母親ワルワーラは、堂々とした美人であったらしい。夫の死後小さいゴーリキイと祖父の家に暮すようになってからは、どちらかというと自分の感情の流れに流されて暮し、ゴーリキイとは離れて生活を営む時の方が多か
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