いる。トルストイ夫人が所謂トルストイアンのいかがわしい連中にとり囲まれている夫に向って「私はこういうトルストイアンがたまりません。こういうトルストイアンを私は心からいとわしく思っています。」と、現にそのトルストイアン連中が聞いている前ではっきりと云うトルストイ夫人を、ゴーリキイは夫のトルストイが理解し得なかった現実性で理解し、夫人の意見を正当と認めているのである。ゴーリキイは六十八年の生涯に多くの作品を生んだが、トルストイやツルゲーネフ、チェホフ等のように、ある一人、或は二人の女を中心に、男女のいきさつだけを中心にした作品というものを書いていない。これは大衆の生活の中から生れ立って来たこの作家のいかにも勤労者らしい特徴の一つである。
チェホフは医者であった。女が男に与えるさまざまの価値ある影響をも認めたが、彼は主としてそれを感性的な面に於て見た。知性の上でチェホフは女の「可愛い愚かさ」というものを一つのあきらめとして、何れかといえば固定的に認めていた。ツルゲーネフが西欧主義者として、いささか皮相的なフェミニストとして女性を文学化し、チェホフにその婦人たちがこしらえものであることを批判されたが、ゴーリキイは以上の人々の誰ともちがい、勤労者らしい淡泊さと同時に現実を恐れない突き込みをもって大衆の半数を占めるところの女のさまざまの姿を描いている。ゴーリキイは極めて健康な本能によって人間としての女が発展進歩すること、社会的な土台の拡大につれて女の世界観も高まり得ること、そのために援助する義務が先進的な男女にあることをその芸術の中で示した。その一つは「母」である。ゴーリキイの最近の写真に、国内戦時代のパルチザンの活動をした婦人たちと話しているところを撮ったのがある。ゴーリキイは膝の上に片肘を突き、唇の両わきを人さし指と親ゆびとで押えながら熱心に耳を傾けている。ゴーリキイはロシア革命史の編纂委員長であった。また、工場史の編纂責任者であった。人類の希望を集めて新しく建設されつつある社会の中で、ゴーリキイは婦人が新しい発展的タイプとして立ち現れて来ていることを充分理解したのである。ゴーリキイがかつて最も文化のおくれたトルクメンの婦人代表に向って述べたよろこびと歓迎の言葉は、決して遠い沙漠に住んでいるトルクメンの婦人たちだけを鼓舞するものではないのである。
[#地付き]〔一九三六年
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