ったらしい。若くて悲惨なその最期を終るまでには、とるところもない性質の男と夫婦になり、ゴーリキイはその継父に堪えられないような侮蔑も受けた。「幼年時代」の中にこの母の、美しくて強いがまとまりのなかった一生の印象が如実に描かれている。野蛮と暗黒と慾心の闘争との煮えたぎっているような祖父の家の生活の中で自分をたいして構ってくれなかった母、子供である自分を忘れたように男と家を出てゆく母、そういう母をゴーリキイは描いているのだが、その筆致の清潔さ、怨恨のなさ、毒のなさというものは心ある読者を驚かせずにはいないと思う。ゴーリキイは、ある境遇におかれた不幸な一人の女として自分の母をも描いているのであって、決して子から見た母、子に対して負うべき責任を持っているものとしての母、しかもその責任を充分自覚もしなければ果たしもしないで、生活の荒々しい奔流に巻きこまれて行った母に対して、払われない勘定書をさしつける息子からとしては書いていない。チェホフが、ゴーリキイの最大価値としてほめた「あるがままに人間を見る力」がこの場合にも母親の女としての現実を理解させたのだと思う。しかし、ただそれだけであろうか。私は一人の女として、何か他の要素がそこにあることを感じる。若し、トルストイがワルワーラのような母を持っていて、「幼年時代」を書いたとしたらばどうであろう。「アンナ・カレーニナ」の中で大きい役割を課せられている幼いセリョージャを、作中で成長させて死んだ母アンナの生涯を回想させたとしたら、作者トルストイはどう描いたであろうか。トルストイはきっと、母の人生に対する態度によって影響された自身の心理について多くを語っただろうと思われる。トルストイの世界観の中では、母と子の関係が人間生活に於ける宗教的な道徳的償いという意味をこめて、歴史的には封建的家長制度的な固い絆でくくりつけられている。このことは「アンナ・カレーニナ」にも現れているし、「戦争と平和」の中に、アンドレー老公爵と息子アンドレー、公女マリアとの関係等にもきびしく描かれている。ゴーリキイが「幼年時代」で母を書いている書きぶりは、五つで、もうあんまり母にかまわれなくなっている子供が、その母としてもその子としても避け難い力で、騒がしい無知な下層民の群の中に押しやられている姿として描いている。長い「家庭生活、家庭教育」で囲われたことのない、歩き出す
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