マクシム・ゴーリキイについて
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)生《き》のまま
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マクシム・ゴーリキイは一八六八年、日本の明治元年に、ヴォルガ河の岸にあるニージュニ・ノヴゴロドに生れました。父親は早く死に、勝気で美しい母はよそへ再婚し、おさないゴーリキイは祖父の家で育ったのですが、この子供時代の生活が、どんなに荒っぽいおそろしいものであったかということは有名な「幼年時代」という作品に生き生きと描かれています。残忍な生れつきの祖父と、財産あらそいばかりしている小父たち。たちのわるい残酷ないたずらをするのが日課であるいとこたち。ゴーリキイの不安な毎日の中で、たった一つのよろこびと慰めとなったのは、おばあさんでした。昔話が此上なく上手で、人間は、辛棒づよく正しく親切をつくし合って生きるべきものであることをいつもゴーリキイ対手に話してきかせたこの太った大きいおばあさんは、ゴーリキイの生涯にとって一つの宝のような人でした。
火事で祖父の家がまるやけになり、すっかり零落してから、ゴーリキイは愛するおばあさんと自分のためにパンを稼がなければなりませんでした。七つか八つのゴーリキイは、ニージュニの町の貧乏な男の子たちと一緒に、町はずれのゴミステ場へ行って、そこで空カンだのこわれた金具だのをひろって、売って其日其日を過しました。
ゴーリキイが処女作「マカール・チュードラ」を発表して、作家として見事な出発をしたのは二十四歳の年でした。当時、帝政ロシアの文壇にはトルストイ、ツルゲネフ、アンドレーエフ、チェホフなどという世界の文学の花形が居ました。しかし、ゴーリキイの出現はロシアの文学にとってのみならず、当時の世界文学にとって一つの新しいおどろきとよろこびでした。何故なら、トルストイを見てもわかるようにこれまで作家と云えば上流の子弟で、十分教育もうけた人ばかりでした。が、ゴーリキイは小学校を卒業していないばかりか、大学は勿論中学も出ていません。一カペイキの借本をよんで育った、逞しい正直な鋭い精神をもった、謂わば浮浪人の若者です。そのゴーリキイは、これまでの世界文学の知らなかった現実生活の一面を、つよい、生活力のあふれる筆致で描きはじめました。靴やの小僧、製図見習、聖画工場の見習。ヴォルガ通いの汽船の皿洗い小僧。ゴーリキイは二十四歳になる迄に、更にパン焼職人であり、カスピ海の漁業労働者であり、踏切番であり、弁護士の書記でありました。これらの生活の間でゴーリキイの見聞きしたものはどういうものだったでしょう。旧い野蛮なツァーのロシアで、民衆は才能も生活力もはけ口を封じられていて、わけの分らない残忍さ、ひどい破廉恥と乱行。さもなければ生きながら腐ってゆくような倦怠、怠惰、憂鬱とけちくささが、ゴーリキイの人生をとりまいていました。その中から、ゴーリキイがあのように立派に、人間らしくぬけ出て立つことが出来たのは、どういうわけでしたろうか。それは、少年の頃から、ゴーリキイが、「人間をつくるのは環境に対する抵抗力だ」ということを感じていたからでした。ペシコフというのが自分の本名なのに、最大の苦痛――マクシム・ゴーリキイとペン・ネームをつけたゴーリキイの若い心は、いつも、「何とかほかに生きかたはないものか」という疑問に苦しめられていました。「人生全体がこんなものなのだろうか。私にも、これよりほかの生きかたはないのだろうか。」もがきながら人間らしい生活を求めたゴーリキイの少年時代、青年時代の姿は「人々の中」「主人」「三人」「私の大学」などという作品のうちに、感動させる真実をもって描かれています。
社会は矛盾にみち、苦しさは少くありません。その中で生《き》のままの人間らしい心で、人間らしい正しさ、やさしさ、美しさのある生きかたを求めるゴーリキイの文学が、すべての人に愛されるのは、実に当然です。「どん底」は一九〇一年にかかれ、ゴーリキイが三十三歳の時の作品です。不幸なロシアの労働者の解放のために、作家としてゴーリキイは黙っていられずこの年の春一つの檄文をかきました。ロシアの政府は其をとがめて、田舎の一つの町に室内監禁しました。その時書かれたのが「どん底」です。そして、世界じゅうがこの戯曲によって、ロシアの民衆の苦しみの真の姿を見たのでした。「どん底」で、出口も分らず渦まいている民衆の力は、段々まとまって、一九〇五年、民衆の大デモンストレーションがおこり、そのとき活躍したゴーリキイは死刑になるところでした。彼が死刑にならなかったのは、ロシアばかりかヨーロッパ各地で、ゴーリキイ死刑反対の運動がおこったからでした。民衆の友、その一人であるゴーリキイが、レーニンと深い友情によって終生結ばれていたのは十分肯けることです。ロシアを
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