迄に、更にパン焼職人であり、カスピ海の漁業労働者であり、踏切番であり、弁護士の書記でありました。これらの生活の間でゴーリキイの見聞きしたものはどういうものだったでしょう。旧い野蛮なツァーのロシアで、民衆は才能も生活力もはけ口を封じられていて、わけの分らない残忍さ、ひどい破廉恥と乱行。さもなければ生きながら腐ってゆくような倦怠、怠惰、憂鬱とけちくささが、ゴーリキイの人生をとりまいていました。その中から、ゴーリキイがあのように立派に、人間らしくぬけ出て立つことが出来たのは、どういうわけでしたろうか。それは、少年の頃から、ゴーリキイが、「人間をつくるのは環境に対する抵抗力だ」ということを感じていたからでした。ペシコフというのが自分の本名なのに、最大の苦痛――マクシム・ゴーリキイとペン・ネームをつけたゴーリキイの若い心は、いつも、「何とかほかに生きかたはないものか」という疑問に苦しめられていました。「人生全体がこんなものなのだろうか。私にも、これよりほかの生きかたはないのだろうか。」もがきながら人間らしい生活を求めたゴーリキイの少年時代、青年時代の姿は「人々の中」「主人」「三人」「私の大学」などという作品のうちに、感動させる真実をもって描かれています。
 社会は矛盾にみち、苦しさは少くありません。その中で生《き》のままの人間らしい心で、人間らしい正しさ、やさしさ、美しさのある生きかたを求めるゴーリキイの文学が、すべての人に愛されるのは、実に当然です。「どん底」は一九〇一年にかかれ、ゴーリキイが三十三歳の時の作品です。不幸なロシアの労働者の解放のために、作家としてゴーリキイは黙っていられずこの年の春一つの檄文をかきました。ロシアの政府は其をとがめて、田舎の一つの町に室内監禁しました。その時書かれたのが「どん底」です。そして、世界じゅうがこの戯曲によって、ロシアの民衆の苦しみの真の姿を見たのでした。「どん底」で、出口も分らず渦まいている民衆の力は、段々まとまって、一九〇五年、民衆の大デモンストレーションがおこり、そのとき活躍したゴーリキイは死刑になるところでした。彼が死刑にならなかったのは、ロシアばかりかヨーロッパ各地で、ゴーリキイ死刑反対の運動がおこったからでした。民衆の友、その一人であるゴーリキイが、レーニンと深い友情によって終生結ばれていたのは十分肯けることです。ロシアを
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