えものだし、まがいものです。本当の「マリア・バシュキルツェフの日記」はここにあります。これこそ、かえりみるべき価値をもっている。若い女性の生活を何かの意味で教え豊かにするものを含んでいる。容赦のない現実を生きた痛切な一少女の吐露があります。
ヘルマン・コステルリッツという映画監督も、脚色者ヨアキムソンも、「恋人の日記」では、弁解の余地のない芸術家としての低さを示している。彼らは、「マリア・バシュキルツェフの日記」に目をとおしながら、一人の女としてのマリアは全然理解しなかった。驚くべき芸術的才能をもって僅か二十四歳で死んだロシアの貴族の娘マリアの、独特な色の焔のようであった性格の美しさ、面白さ、苦悩の真実さ、矛盾の率直さが、まるでつかまれていない。つまり人及び芸術家が魅力を感じるべき点がことごとくゆがめられて通俗なロマンスとなっているのである。
例えばマリアが病気になっている。しかも大変わるくなっている。それを知っているのは、彼女を魂から愛している老家庭医のワリツキイ博士だけであるように映画では説明されていて、そこで観客の眼に涙を誘う道具だてがされているのだが、実際の生活の中でマリア
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