ボン・ボヤージ!
――渡米水泳選手におくる――
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)[#地付き]〔一九四九年八月〕
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 古橋広之進君をはじめ五名の水泳代表選手が、来る十一日のパンアメリカ号で渡米する。全米水上選手権大会へ、これらの日本の若い精鋭が出場するようになったことは全日本の明るい関心をあつめている。合宿先である福田屋旅館の板前さんまでただごとならぬはりきりかたで、選手のかたは一日一里以上も泳ぐのですから、食事についても十分気をつけてと、もの惜しみしない談話が新聞にのっている。その記事を四、五人の男が珍しそうに大切そうに顔をさしのばしてとりかこんでいる写真がある。そのまんなかで古橋君は若者らしく笑っている。
 この写真を眺めて、わたしはいつか偶然N・H・Kのスタディオで同席した古橋君の笑い顔を思い出した。そのとき、幾人かの人々は、一つテーブルをかこんでかけて、ひまな時間を、低声に雑談していたのだった。古橋君が、世界記録を破った一九四七年の暮のことで、N・H・Kは戦後日本の空を世界に向って明るく開いてくれた古橋君として登場させるわけだった。
 練習のはげしい水泳選手として、寮生活の食事では無理だけれども、大体それでやっていると、古橋君はあっさりした話しぶりだった。日大は、古橋さんというポスターのおかげで、大分便宜を得ているのだし、同窓生たちにとっては、われらの青春のチャンピオンであるわけだから、みんなが協力して、せめて消耗にふさわしい食事ぐらい何とか工夫はできないものかしら、というわたしの言葉に、古橋君は、さあ、とただ笑っていた。
 その後、しばらくして各大学における運動部の内情が、具体的に描き出された雑誌記事があった。私立大のスポーツ・ボスが従来どんなにチームをくって来たか。そのために選手たちのスポーツマン・シップは危機にさらされがちであること、及び、各大学の運動部は、その学校の精神水準としては、社会的認識についても素朴な低い面を代表しがちな傾向について書かれていた。
 またしばらくすると、経済逼迫のために、古橋その他の有名選手たちが夏休みのアルバイトとして、銀座辺で漬物屋の店をひらくとか、そういう店に働くとかいうニュースがでた。そのときとられた写真の中でも、古橋君たちはやっ
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