は、どんな心理を発生させているであろうか。現に「ラップ」の二人の作家は富農《クラーク》とその一派の農民のテロルによって殺された。ソヴェトの「あらゆる物質的イデオロギー的富源と共に勤労階級のもの」であるラップの作家が、この歴史的飛躍の瞬間に、どんな芸術活動をもって、文化建設に参加するべきか、その具体的な方法が発見され、達成されなければならない。文学ウダールニクは、先ずその基礎的勉強として前進した。真直生産に従事する「大衆の中へ!」
「ラップ」の機関誌『十月』やまた、『文学新聞』『成長』『イズヴェスチヤ』などに、その文学ウダールニクの手記、記録がのるようになった。
それ等の手記や記録に、所謂芸術的磨きはかけられていない。然し、例えば遠いシベリアの奥で、農村が集団化され、播種面積が予定より五パーセント拡大された。その何平方露里かの社会主義化のかげに費されたソヴェト農民集団の階級的努力が、地味に、正確な数字と、見聞の記録によって速かに報道されているのだ。
ソヴェトの労働者と農民とは、十一年前に、やっぱり全線的な階級闘争をやった。それはあの忘れることのできない「十月」だ。今、再び五ヵ年計画によってソヴェトの勤労階級は全線的に自身を動員し、立ちあがった。が、「十月」時代の英雄主義《ヒロイズム》と、現在社会主義建設のためかくれた功績をつみつつあるプロレタリアート農民の英雄主義《ヒロイズム》とは、まるで、心理も、表現も違う。
一九二八・九年のソヴェトの英雄は、銃を持ち血走った眼で森の中にかがんではいない。槌をもって、或は動力《モーター》のスウィッチの番をして、工場の粘りづよい労働の中にいる。耕作トラクターの油と耕地の泥にまびれながら、或は村の橋ぎわにマホルカ(下等煙草)ふかしながら、貧農と今夜の村ソヴェト集会について話している若者の中にいる。「ラップ」の作家たちは、それ等を記録するに空虚な形式上の目新しさが何の役にも立たないことを学んだ。誇張的な形容詞や、感歎記号や、ただ行《ぎょう》を切りはなして、
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彼等は
働いている
工場で※[#感嘆符二つ、1−8−75]
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と書いたりすることは、ちっとも必要でないことを、自得した。階級としての人間の集団と集団との関係。人間と機械との関係。それ等は、具体的な社会主義社会建設のための諸活
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