ルヌイ劇場、諷刺劇場は、舞台を飾ることそのもののための飾りずき、衣裳のための衣裳ずきで、一度ならず行きすぎてきた。メイエルホリド劇場ではあるとき舞台装置にこりすぎる位で殆どそういう浪費の経験はなかった。
今、「舞台の美[#「美」に傍点]」の再吟味で、メイエルホリドは、彼の最初からの宣言を撤回していない。装置は、劇的表現の構成部分として必要以上の扱いを受けるべきではないという。メイエルホリドは、ソヴェト演劇の舞台は、がっしりよく組たてられた自動車、フォードが持つ美を、もたなければならないと、云っている。
この点について、非常に微妙な一つの面白い観察が下される。
成程自動車は、実用の美をもっている。全体の構成の上に不必要な、どんなネジも持っていないし、あまったどんな偶然のデッパリもない。どの部分も、自動車が自動車としてあるために必要なものだ。だが、メイエルホリド君! 君は、自動車消費者の立場で、それを眺め、ボディーの美しさを味い、このみの色にエナメルする者の立場で、自動車の美について云っているのか、または、エンジンの発達を先ず根本におく自動車製作者の立場でその美をつかみ理解しているのか?
五ヵ年計画とともにプロレタリア芸術が獲得しつつある唯物弁証法的な、リアリズムとメイエルホリドのややこけおどしの気味がなくもない様式化、そこにあるエクゾチシズムや誇張性とはどういう関係で発展するものだろうか。現代のソヴェト大衆が実感している文化の生活的な現実性と、その演劇的な表現者であり、鼓舞者であるべきメイエルホリド劇場のもっている特色とは、どういう関係をもっているものだろうか。メイエルホリドの「本当の道」がまだはっきりきまらないという理由は、ここにある。
2
「南京虫」
「風呂」 マヤコフスキー作
この二つはメイエルホリドが、一九二八年・三〇年のシーズンにつづけて上演した、最初の、五ヵ年計画に関係をもつ脚本だ。
「南京虫」は、現在のソヴェト生活に、決して珍らしい虫ではない。南京虫と同様に、飲酒、喫煙、官僚主義、恋愛からの自殺も、決して珍しいものじゃない。
「南京虫」の第二部は、五十年後のソヴェト社会の場面である。前時代の遺物として南京虫が、たった一匹標本的に棲息をつづけている。舞台へ、つくりものの巨大な南京虫があらわれる。
官僚主義者なんかも五ヵ年計画後のソヴェト社会には見たくてももういない。やっと一人、第一部からの中心人物である、プリスィプキンが、その見本に、博物学教室で飼われている。
五十年後のソヴェト社会では、重大事件がすべてラジオで投票決議されるということになっている。清潔な社会主義社会にとって有毒な官僚主義、俗人趣味のバチルスとしてのプリスィプキンは仮死状態で発見されたがそれをどう処理するか。やっぱり全|СССР《エスエスエスエル》のラジオの決議で活きかえらすことになり、珍動物として厳重な檻の中で試育され、マスクをかけた一九七九年代の社会主義教授が男女学生に官僚主義という珍しい習性について説明してやるという筋だ。
五幕九場のこの喜劇は、ソヴェトが、五ヵ年計画のはじまり、実際大仕掛に官僚主義撲滅と、労働の規律のためにアルコーリズム反対をやった時代に「左翼戦線」の詩人マヤコフスキーによって書かれたものだ。
メイエルホリドは、彼の「再建設期のソヴェト劇場の任務」を、この左派|同伴者《パプツチキ》詩人の作品で、どんな工合に実現して行ったろうか?
主題は、たしかにソヴェト大衆がその労働でそれとたたかって来た官僚主義との闘争だし、メイエルホリドの演出も、喜劇的な誇張に反撥しなければ幕から幕へ観てゆくに退屈はしない。
だが、一九七九年代のソヴェトにおける社会主義の社会生活の内容というものは、ラジオによる全同盟の決議という空想からはじまって、どれもこれもひどく架空的な印象を与える。つまり、五〇年後のソヴェト社会のものとして現わされている批判が、一九二九年代の現実性から発展した事実としての必然性、具体性を一向もっていない。機械的に、一九二九年の現実の否定な面に対する否定だけが示されている感じだ。ソヴェトの一九二九年は南京虫と官僚主義だけで代表されてもいない。
まして、ソヴェトの勤労人民の誰が、五ヵ年計画を十度やったあとの社会には、一匹の南京虫と一人官僚主義的俗人が、博物学の標本としてのこるような世の中に成ると思っているだろう!(帝国主義諸国が地球の大部分をしめて、その利害を必死に守ろうとしているとき。)
メイエルホリドは、作者マヤコフスキーといっしょに一九七九年の社会主義社会の文化を示そうとして、いろんな機械を舞台の上へもち出して来る。それにも、実感がない。社会主義の社会に生きる人民が機械ずきなのだけは分る。然し、ほんとに、進歩したプロレタリアートが、生産・生活ときっちりむすびついたものとして、科学的な用具としてわがものにした機械らしい活々として真実性のある表現はなされていない。それらからはオモチャとしての、物ずきとしての機械が、先ず感じられるのだ。その意味では現在の機械化の逆諷刺の結果さえふくんでいる。
「風呂《ワンナ》」で、マヤコフスキーは、労働者青年の中からのソヴェト・エジソンの出現、小市民趣味と盲目的な外国、資本主義国崇拝の排撃、最後に社会主義の勝利、社会主義の「風呂」で、はじめて人間がきれいにされるということを主張した。
メイエルホリドは、この六幕の戯曲を、特色のある廻り舞台と、人体力学《ビオメカニズム》とで演出している。
一九三〇年は、あっちこっちの劇場で、廻り舞台を応用した年だった。日本の歌舞伎が一九二八年にソヴェトに来た影響とも思える。メイエルホリドは「風呂」で舞台に一定の直径をもつ円い切り目を入れた。中心部は動かない。そのまわりの相当ひろい輪が、いろんな場面をのせて、グルリとまわる。或るところでその輪は、急速力で一回転二回転して、メイエルホリドらしい、群集の心理激動の描写をやる。
仕事着を着たチュダコフ(プロレタリア大発明家)と数人のその仲間の動作は、常に綜合的にリズミカルに統一され、チュダコフの発明した何かの機械は、舞台の上へは形を現わさない。発明家とその同志が、手を組み合せ、大事に、重そうに、やっこらと物を運ぶしぐさでだけ暗示的に表明される。
大詰は、社会主義国の首府から迎えの飛行機がやって来る。飛行機は、未来のアメリカの屋上着陸所みたいな高い高いところで止っているのだそうで、見物席からは見えない。銀と赤の飛行服をつけて上空からやって来た、中央からの婦人使節スワーボダに率いられて、チュダコフ一隊はその飛行機に向って、舞台中央に組み立てられたヤグラを一段一段と高くよじのぼってゆく。くっついて社会主義首府へのりこもうとした俗人、反社会主義的人間は、ひどい爆音がして煙が立ったと見ると何か科学の力できれいにヤグラから舞台の下へ落っことされている。あれよあれよという間に、社会主義の首府に向って、飛行機は飛び去り、芝居は終るというわけである。
マヤコフスキーの科学力に対する翹望と愛好は「風呂」で一層率直に示されてる。実際ソヴェト科学の発展は、社会主義生産の建設事業に何より必要なものだ。耕作用トラクターからはじまって、飛行機は勿論、どこかに成長しつつある同志、チュダコフの強力な発明の可能性に至るまで、一九三〇年代の自覚ある全プロレタリアートの関心事であることに間違いない。
現在ソヴェトはアメリカから、イギリスから機械を買っている。革命的プロレタリアートは知ってる。ソヴェトは、社会主義生産の技術を高めて、やがて、一台のトラクターも外国から買い込まないようにするために、今暫く、国営農場「ギガント」に、アメリカ人技師の指導をうけているのだと。
「風呂」で、マヤコフスキーは大胆に、ソヴェトの建設事業に非同情的な外国人と、いい布地の外套を着た外国人とさえ見ればペコつく対外文化連絡協会案内人の卑屈さを、漫画化してやっつけている。
マヤコフスキーが、ソヴェトを愛し、その発達を熱望し、それを自分の戯曲の中で目の前に見るように描きたがった心持。彼の所謂、「よく丈夫に組立てられたフォードの美」をその演出で把握しようとしたメイエルホリドの意志。どっちも理解出来る。二人は自分たちの才能を、五ヵ年計画遂行というソヴェトの歴史的情勢において試みている。
然し、残念ながら、そのいずれもが成功したとは云えない。作者と演出者とは腕を組んで、またここでも架空で観念的な社会主義と科学の空想の中へ辷りこんでしまった。
ほんとに職場で、鎚を振い、トラクターを運転して自分たちの体と心で社会主義建設に努力しているソヴェトの勤労者たちにとって、この芝居はどこやら擽《くすぐ》ったく、余り空想的で今日の現実と結ばれた実体がなくて、主題は現実的な力を欠いているとしか感じられない。全く、机の上で想像した作品だし、観念で模型的に演出された芝居だ。舞台から溢れて観客に燃えうつってゆく熱い焔――メイエルホリド自身が最も重大な演劇的要素としている「感情のつかみ」は、完全に失敗した。
「南京虫」を観たのは、丁度マヤコフスキーが自殺した数日後だった。
わたしは告別式のとき、全露作家団体協議会クラブの広間に据えられた棺の中に横わっているマヤコフスキーを見た。顎骨のつよくはった彼の顔、体を包んでいる赤い旗、胸の上におかれているバラの花。それ等は写真にとられ、ソヴェト文学史の第何頁かにのこるだろう。静粛にしかし門外にまでつづいている告別の群集に混って列になって棺の足許を通りすぎながら、わたしは思いがけないものを見た。
マヤコフスキーの靴をはいた足の先が偶然赤い旗からニュッとこちらを向いて突き出していた。ごくあたり前の黒鞣の半編上げだ。この靴にたった一つ、あたり前でないものがある。それは、その大きい平凡なソヴェト靴の裏にうちつけてある鉄の鋲だ。
ヘリをとめるに、鋲は普通靴の踵にうたれるものだ。マヤコフスキーの屍のはいている靴には、鋲が、爪先の真先にガッチリうちこまれ、それも減ってつるつるに光っている。
煌々たる広間の電燈は、自身それに追いつきかねながらも最後までソヴェト権力と社会主義の勝利を信頼して自殺した詩人マヤコフスキーの体を覆う赤旗をくっきり照らしている。同時に、そのはきへらした靴の爪先の小さい二つの鋲をもキラキラ照らしている。彼の生涯を表象しているようなこの小さい二つの鋲の意味に数千人の哀悼者の内何人が心をとめて見ただろう。
いつだったか古いことだ。何かで、下駄の前歯が減るうちは、真の使い手になれぬと剣道の達人が自身を戒めている言葉をよんだ。
マヤコフスキーの靴の爪先にうたれた鋲は、彼の先へ! 先へ! 常に前進するソヴェト社会の更に最前線へ出ようと努力していた彼の一生を、実に正直に語っている。
彼はそこから自分を解放することに成功しなかった個性的才能の型に圧しつぶされて自殺しながら、自分をのりこえ、階級の芸術家としての自分を生きこして邁進するソヴェト文化の勝利に向って万歳を叫んだだろう。わたしはそう感じた。
だから、「南京虫」にある彼の観念的な破綻にしろ、わたしに軽蔑を感じさせるより先に、ソヴェト社会の発展の足どりの猛烈なテンポを痛感させた。
作者マヤコフスキーにとって「南京虫」や「風呂」は芸術家としての飛躍の最後の句読点《ピリオード》だった。けれども、演出者メイエルホリドにとっては、五ヵ年計画とともに前進すべき仕事の第一歩のふみだしだ。
これから、彼が並々でない才能を現実に向ってどう立てなおし、真実のプロレタリア演劇として必要な現実性を把握してゆくか。機械、科学、生産を、彼の云う「フォードの美」をどうプロレタリアの建設的実状の中から掴みなおすか。ここに大きい未知数がある。
マヤコフスキーの作品と前後して、プロレタリア詩人ベズィメンスキーの「射撃《ウィストレル》」がメイ
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