計画とその実現であるソヴェト五ヵ年計画とその完成に向って捧げられているソヴェト大衆の団結した努力、意志は、大詰の舞台では表現されず花形舞踊手一人の手でふりまわすヴェールの幅だけに萎縮されてしまった。
 現代のソヴェトに於て筋肉たくましい二百人の青年が、スポーツ・シャツと股引といういでたちで、徒《いたずら》に台の上に並んで腕組みをしたまま、勝手に跳ねる石油や石炭を傍観しているというような情景は、全く観客の共感をよびおこさない。むしろ腹立たしく思わせる。
 我々の一列前に、大毎のモスクワ特派員が来ていた。幕間に、わたしたちに向って、
 ――どうです?
ときいた。
 ――さあ。
 ――なかなかよく踊りますね。
 そして、クリーゲル一行七人かが、最近日本へ出かけることに略《ほぼ》確定したと云った。歌舞伎がモスクワへ来たおかえしみたいな意味なのだそうだ。
 ――クリーゲルは何しろ「人民芸術家《ナロードヌイ・アルチスト》」だからきっといいでしょう。
 わたしは、日本の大衆がソヴェトからの芸術として待ってるものは、ただ「よく解る」ということや称号ではないと信じる。
 クリーゲルが行って、七円も八円も切符代のする帝劇かどっかの舞台で古典的なバレーの型を演じることと、二百万の失業者をふくむ日本のプロレタリアートとの間に、どんなつながりがあるであろうか。
(後で、この計画は中止された。理由はよくわからない。しかし、クリーゲルの芸術が古典的すぎることも再吟味されたらしい話であった。)

       メイエルホリド劇場の三晩

          1

 ソヴェト・ロシアの劇団で、モスクワ芸術座の次に、世界にひろく知られているのはメイエルホリド劇場だ。
 日本でも、「|吼えろ《リチ》! 支那《キタイ》」「D《デー》・E《エー》」などはメイエルホリド劇場の模写が上演された。
「吼えろ! 支那」は、なかなか宣伝的効果があった。中国を植民地化している帝国主義の国の権力と、中国の勤労人民の姿がよくわかるばかりでなく、メイエルホリドの若い俳優たちは、アメリカ人、イギリス人の真似がうまい。言葉の調子にしろ、身振りの癖にしろうまい。もとから紹介されてる人体力学《ビオメカニズム》とともに、これは確にメイエルホリド劇場の特徴の一つだ。
「吼えろ! 支那」だって、帝国主義国の海軍士官たちが真に迫っていて、思わず中国のプロレタリアートと一緒にその横暴ぶりを憤慨してしまった。
 メイエルホリド劇場は、一体に研究心がつよい。革命直後、メイエルホリドが南露からモスクワへ帰って来て、教育人民委員会の演劇部議長になってから段々今日までやって来た仕事ぶりを見て、それはハッキリ云える。
 ソヴェトの劇団を揺すぶりかえした有名なゴーゴリの「検察官」の全然新しい演出。失敗に終った「知慧の悲しみ」の同じような試み。ただ物ずきでメイエルホリドはそれ等をやったのではなかった。十九世紀の「検察官」の記念碑的内容を、ソヴェトの音で、ソヴェトの形で、社会主義建設にたずさわるソヴェト・プロレタリアートの社会的自己批判にたたきつけようとしたものだ。
 実際、メイエルホリドの「検察官」をはじめて観るといい加減びっくりする。最後の幕切れに、昔からの「一同仰天」の型で一応きまる。がメイエルホリドはそこで幕にしない。つづけて直ぐ市長が発狂する。ピーピーつづけざま呼笛が鳴る。狭窄衣がとび出す。赤いプラカートがスルスルと舞台一杯におりて来て、舞台からとびおりて俳優が観客席の間を右往左往、小鬼みたいに叫びながら馳けずりまわり、パッとそれが消え、再び舞台が明るくなったと思うと、映画のフラッシュ・バックの手法で、そこにもとのまんま「一同仰天」の型で何とも云えずかたく人形ぶりで凝固した例の市長夫人、郵便局長以下の面々がいる。
 オヤ、本物かしらん? それにしては早がわりすぎる。何だかへんだ。――人形だ。とわかった瞬間、舞台は真暗になって、見物の心には、焔で引っかきまわしたような、
 検察官が来た! 検察官が来た!
 ピーッ! ピーッ!
という印象と、仰天したまんま人形にまでかたまってしまった市長夫婦以下、郵便局長なんかの姿が、頭痛のする程強烈な感銘でのこされる。
 検察官が来た! 社会主義の検察官がやって来た! ピーッ! ピーッ! そして、そういう検察官の到着にびっくりして固まっちまう種類の人間群が、階級として、典型として人形にまですっかり固定されたことを感じるのだ。
「検察官」の大詰におけるほど印象的で強烈な大詰を、メイエルホリドは、ほかのどの脚本にもそう度々は繰りかえしていない。
「検察官《レビゾール》」では、本舞台の上へ後へ行くほど高くて幅の狭ばまった、扇形の斜面置舞台がつくられている。その病的に、薄暗く、しかしつよい照明に照し出された狭い置舞台の上を、華美な着付でうごくことでフレスタコフと市長夫人、娘の恋愛的情景に非常に圧縮された濃い深い雰囲気を出した点、メイエルホリド一流の好みで、ロイド眼鏡をかけたフレスタコフが、ゆきつ戻りつ、ステッキをふって市長宅へ出かける場面で、大胆至極な赤銅ばりの柵で舞台を横断させ、動く人間を一本の強い線の左右にキッチリ統一させた手際、平凡ではない。だが、大詰の場面にパッと本物、次には全く本ものかと思うような、しかし人間で結んだところは奇抜で、メイエルホリドが、写真で見ても一風かわった風貌をもっている所以がうなずけるようだ。
 動かない人形。つめたい人形。そういうものがもっている劇的効果を大がかりに、而も百パーセントの技術でつかったのはメイエルホリド一人だ。(日本のおかめ[#「おかめ」に傍点]の面はエイゼンシュテインによって映画「十月《オクチャーブリ》」の中で極めてイデオロギー的に利用されているが)
 それにしても、「検察官」の舞台に漂ったメイエルホリドの、底なしのデカダンスの肉感と、オストロフスキーの「森」の舞台の牧歌的朗らかな恋愛表現、哄笑的ナンセンスとの対照。又「D《デー》・E《エー》」の黒漆でぬたくったような暗い激しい圧力と「吼えろ! 支那」の切り石のような迫力との対照は、メイエルホリドがひととおりの才人でないことを知らされる。
「お目出度い亭主」は粉挽小舎だが、小舎のうしろの二つの風車は、粉をひくためばかりに廻っているのではない。舞台の上の劇的感情の高揚につれ、赤い大きい風車はグルリと舞台の上でまわり出し、遺憾なく波だつ感情の動的な、視覚的表現の役に立てられている。――
 メイエルホリドは昔、モスクワ芸術座にいたことがあった。そこを出て、一九〇〇年代がはじまったばかり――ゴーリキーがそろそろ小説家として働きはじめる頃のロシアのどこかを放浪していた時分、まだチェホフが生きていた。チェホフもメイエルホリドの才能は感じていたと見える。誰かにあてた手紙の中に、チェホフらしい内輪な云いぶりで「彼の本当の道を発見させてやりたい」と書いた。
 われわれにとって意味ふかく考えられるのは、このチェホフのこの単純に云われているが重大な言葉が、今日のメイエルホリドにとっても、まだ決定的に答えられていない点だ。
 同じ頃モスクワ芸術座にいたスタニスラフスキー、メイエルホリドより年もずっと上だが、モスクワ芸術座のリアリズムを確立させ、しかも「装甲列車」などでは着実な発展の可能を示していた。ソヴェト同盟の「人民芸術家」としてもう完成された演出家である。現在のスタニスラフスキーに動揺する要素や未知を感じてこの先彼がどうなろうかと、心配したりする者はソヴェトの観衆の中にまあないだろう。
 メイエルホリドも、「人民芸術家《ナロードヌイ・アルチスト》」だ。ソヴェト同盟から、革命前及革命後の彼の演劇に対する探究的な努力に対して、その最高の称号を与えられた。が、メイエルホリドの場合では、この称号が彼の才能を一定の場所に繋ぎとめるどんな材料ともなっていない。
 メイエルホリドの天分の豊かなこと。それはソヴェトの観衆が十分知りぬいているどころか、世界に知られている事実。常に研究的で、新しい試みに対して大胆であること。それも、例えば一九二一年から二八、九年までの仕事ぶりを見れば分る。メイエルホリドの特徴はこの点に集約されていると云える。
 ところで、まだ誰にも、ハッキリ分らないことが一つある。それはソヴェトの五ヵ年計画と――刻々に前進する社会主義の社会の現実とメイエルホリドが独特性としている芸術理解の特色=極端な様式化と構成派風な偏奇さ、誇張、一種の病的さなどが労働と互にどういう関係において発展してゆくかという問題だ。
 生産拡張の五ヵ年計画は、ソヴェト生産を十倍、六十倍という凄い率で増加させるとともに、工業では生産の九二パーセントを、農業では六五パーセントを社会化する。これは社会生活全線の社会主義的前進を意味する。五ヵ年計画がはじまって、第二年目の一九三〇年にはソヴェトの生産と文学との関係が、「十月」以来どの時期にもなかった程緊密になった。
 生産に従事するソヴェト労働者、農民、一般勤労者の文化水準はめきめき盛りあがって来て、生産の実践から、唯物弁証法的創作方法が、一般芸術の方法とされて来た。
 メイエルホリドは、彼の「劇場の再建設」といういくつかの演説をあつめたパンフレットの中で、熱心に、再建設期のソヴェト劇場の任務について云っている。
「劇場には、新しい任務がある。
 劇場は上演を通して観衆の、オブローモフ主義、色情狂、悲観主義に対して闘おうとする意志を強める役に立つような仕事をやらなければならない。」
 ソヴェトは劇場の数でベルリンやニューヨークより劣っているとしても、観衆の質は全然違う。ソヴェトの観衆、特に若い観衆は、クラブの芸術教育によって、未来の発展を見とおす階級の武器としての演劇に対して意識的な要求をもっている。
 社会主義の社会を建設しつつある人民のものとしての演劇は、上演に一貫した現実の生活感情に共感を与える感銘を要求する。観客は、何のためにこの劇が演ぜられ、自分の心にどう感じられたかということを、はっきりとらえようと欲している。つまりほんとに自分たちのものとして観るためにこれを上演している舞台監督と俳優とは何を云い表わそうとしているかということを追求する。
 舞台監督と俳優とは舞台の上で自分たちと一緒に行動し、考え、問題を提出し、それをときほごし批判し、論議するものとして観衆から期待されている。そして、それが芝居であるからには、舞台そのものが観衆の感情に、心持にぴったりと作用することを求めている。
 メイエルホリドはこの歴史的意義のあるソヴェトの社会主義への再建設期において、ソヴェトの人民大衆を観衆とする芝居がこの二つの方面で成功するために「舞台の美」が再吟味されなければならないことを力説している。
「舞台から美[#「美」に傍点]を追っ払え!」というローズング〔スローガン〕がソヴェトには久しい前からある。ブルジョア演劇の、必要以上にでかでかと金をかける舞台装置や女優の衣裳への堕落した習慣に反対して云われた言葉だ。メイエルホリドも、旧いブルジョア風の、美観[#「美観」に傍点]は、彼の明暗のきつい構成派の舞台の上から、追っぱらって来た。
「D《デー》・E《エー》」「森」「お目出度い亭主」のそれぞれ成功したメイエルホリドの舞台にどんな仕掛けがあったろう。どんな豪華な衣裳があったろう?「D《デー》・E《エー》」には茶色の木の塀と、幾枚かの木の衝立があっただけだった。登場人物は白と黒との統一であった。「森」の舞台には、ひとすじの思い切って長く美しい線をもった木橋と、小っぽけな木にペンキを塗った門とブリキ茶罐。バラン、バランとひどい音を立てて鳴らされたブリキ板、一つのブランコがあっただけだ。銀鼠色の木綿服を着た若いアクスーシャとピョートルは、流れる手風琴《ガルモシュカ》の音につれて、そのブランコを揺りながら、今にも目にのこる鮮やかで朗らかな愛の場面を演じた。
 第二芸術座、ワフタンゴフ劇場、カーメ
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