ーヨークより劣っているとしても、観衆の質は全然違う。ソヴェトの観衆、特に若い観衆は、クラブの芸術教育によって、未来の発展を見とおす階級の武器としての演劇に対して意識的な要求をもっている。
 社会主義の社会を建設しつつある人民のものとしての演劇は、上演に一貫した現実の生活感情に共感を与える感銘を要求する。観客は、何のためにこの劇が演ぜられ、自分の心にどう感じられたかということを、はっきりとらえようと欲している。つまりほんとに自分たちのものとして観るためにこれを上演している舞台監督と俳優とは何を云い表わそうとしているかということを追求する。
 舞台監督と俳優とは舞台の上で自分たちと一緒に行動し、考え、問題を提出し、それをときほごし批判し、論議するものとして観衆から期待されている。そして、それが芝居であるからには、舞台そのものが観衆の感情に、心持にぴったりと作用することを求めている。
 メイエルホリドはこの歴史的意義のあるソヴェトの社会主義への再建設期において、ソヴェトの人民大衆を観衆とする芝居がこの二つの方面で成功するために「舞台の美」が再吟味されなければならないことを力説している。
「舞台から美[#「美」に傍点]を追っ払え!」というローズング〔スローガン〕がソヴェトには久しい前からある。ブルジョア演劇の、必要以上にでかでかと金をかける舞台装置や女優の衣裳への堕落した習慣に反対して云われた言葉だ。メイエルホリドも、旧いブルジョア風の、美観[#「美観」に傍点]は、彼の明暗のきつい構成派の舞台の上から、追っぱらって来た。
「D《デー》・E《エー》」「森」「お目出度い亭主」のそれぞれ成功したメイエルホリドの舞台にどんな仕掛けがあったろう。どんな豪華な衣裳があったろう?「D《デー》・E《エー》」には茶色の木の塀と、幾枚かの木の衝立があっただけだった。登場人物は白と黒との統一であった。「森」の舞台には、ひとすじの思い切って長く美しい線をもった木橋と、小っぽけな木にペンキを塗った門とブリキ茶罐。バラン、バランとひどい音を立てて鳴らされたブリキ板、一つのブランコがあっただけだ。銀鼠色の木綿服を着た若いアクスーシャとピョートルは、流れる手風琴《ガルモシュカ》の音につれて、そのブランコを揺りながら、今にも目にのこる鮮やかで朗らかな愛の場面を演じた。
 第二芸術座、ワフタンゴフ劇場、カーメ
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